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「あの、一時間だけ借りれますか?」
結婚式に出たばかりの僕は黒い礼服のままで、少し怪訝な顔をされる。
荷物はコインロッカーに詰め込んだ。
あの時とは違うレンタルの自転車だけれど、この街を走ってみたかった。
久々に踏み込むペダルの重さが心地よく太ももに伝わる。
懐かしいアパート…僕の自転車も、薫さんの自転車も並んでいない。
まっすぐに海へ向かってペダルを踏む。
堤防へ登る坂道を立ち漕ぎでクリアすると、目の前に海が広がっていた。
彼女の欠片がそこかしこに落ちているけれど、もう色褪せてはいない。
二度と来ないと思った、あのアトリエで自転車を止める。
随分と年季が入ったけれど、店は開いていた。
席は幾つも空いていたけれど、可愛らしいウェイトレスにカウンターでと告げる。
「ご注文は、お決まりですか?」
「カフェオレを…温かいやつで」
「かしこまりました」
あの時のカフェオレじゃないけれど、今の僕には充分だった。
内装はすっかり変わったけれど、此処は確かに僕たちのアトリエだ。
あの壁に置いた椅子に貴女が座り…
僕はキャンバスに向かい筆を走らせた。
僕の中にあったわだかまりが、思い出に溶けてゆく。
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