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「ワッ」と小さな叫び声を出して、信二はその場から走って逃げた。
「なんで逃げるのよ」
淳子は赤ん坊をあやすようにその大きな猫を抱いて揺さぶっている。
「近づくな」
信二は両手を前に出し、淳子と猫が来るのを防いだ。
「大丈夫よ」
「ダメだ。その猫を何処かにやってくれ」
淳子は、猫の右手をあげてオイデオイデをして、猫なで声で
「ダイジョーブ」と言った。
「やめてくれ」
信二の顔は強張り、足の震えが止まらない。
淳子はそれを見て、「はーっ」とため息をつくと、
猫に「ダメデチュネー」と赤ん坊に語りかけるようにいいながら、
猫を抱いたままマンションの扉を開けて中に入っていった。
信二はゆっくりとその後についてマンションに入った。
後ろで「カチャッ」と扉がロックされる音が聞こえた。
そこで前に進もうとしたが、目の前に淳子が猫を抱いたまま立っている。
後ろの逃げ口は塞がれている。
「その猫を何とかしてくれ」
信二はむきになって叫んだ。
「ダメねー」
淳子は猫を抱いたまま門柱に向かった。
信二は猫が飛び掛ってこないように、壁にピッタリと張り付いて
淳子と猫が目の前を通り過ぎるのを見ていた。
そして、猫が門柱の上で前脚をお腹の下にまげて座るのを確認すると、
音をたてないように息をこらし、
腰を曲げた姿勢で、
海老のように、後ろ向きで一段一段ゆっくりと階段を上がった。
一階と二階の間の踊り場まで来たとき、猫の視界から外れたと見るや、
態勢を入れ替えて早足で階段を駆け上がり、自分の家に飛び込んだ。
玄関の扉を閉めて入口に座り込むと、心臓がドクドクと鳴っていた。
あとから入ってきた淳子がハーハーと息を吐いている信二を見て、
「弱虫」と言って嘲るように笑った。
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