第1章

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 今にも雨が降りそうなほど湿度を含んだ空気の中、マンションの鍵を開ける。鉄製の扉なのに周囲の水分を集めたかのような音を立てていた。まるで麻生(あそう)の気分を反映しているかのようだ。  ――千年(ちとし)のお帰りは今日も午前様ですか。  この分譲マンションの持ち主である伴(ばん)はまだ帰宅していない。真っ暗な玄関に明かりをつけ、スニーカーを脱ぎ、磨き上げられた廊下進む。十八畳のリビングダイニングに入るとそこの蛍光灯も点けた。白く眩しい光が室内を冷たく照らす。  六月だというのに今日はなんだか肌寒い。ずっと曇りで太陽が日中顔を出さなかったせいだろう。そして明日の朝は確実に降りそうな湿度の高い空気。それらが底冷えのするような寒さを生み出していた。  鞄をとりあえすリビングの二人掛けソファーに投げ、コンビニで買ってきたおでんをダイニングのテーブルに置いた。プラス三度の除湿でエアコンを点けてから、原付バイクで通勤する麻生は防寒と安全対策のためにしている厚着を解く。夏真っ盛りでも麻生は無駄な怪我などしたくないので、バイクに乗る時は長袖ジャンバーとジーンズだ。  麻生が少しずつ室内に自分の痕跡をつけていくと、無機質だったそこに命が吹き込まれていく。大型テレビの前にあるソファに置かれた服が、テーブルの上のおでんが、それぞれの家具に愛着を思い出させる。テーブルで伴と食事をしたこと、並んでソファに座って麻雀映画を観たこと。  同時に暖かい思い出がひとりでいる今を強調していく。少し前ならこのマンションでひとりでいたところで、こんな感傷に浸ることもなかった。思い出に続く先があったからだ。今はその先が見えない。
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