第4章

25/25
39人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
「伴さんはこいつとキスのひとつもしなかったんですか?」  麻生のことを自分のもののようにこいつと表現する加地に、伴はにやりと笑って見せる。肉食獣の王者の顔へ変わっていった。 「したぞ、何度も。弥彦がねだるからな。弥彦、これ持って帰れ。早く冷蔵庫にいれないと今の季節はヤバイだろ?」  伴が手に見せたのはスジ煮の入った袋だ。麻生は加地から身を離し、エレベーターを降りてスジ煮の袋を受け取りに行く。足が微かに震えていた。 「……ちょっとかまってやらなかったら、もう男捕まえたのか」  スジ煮を受け取る時、耳元に嘲笑が降る。やっぱりという目で伴を見上げた。その位置は加地より若干高い。 「そう。だから安心して女のとこ、行きなよ」  もう女の香水を嗅ぐ必要のなくなる、一番手っ取り早い言葉だった。自分から幕を引く気はなかったが、尻軽と言われっぱなしでいられる性格でもない。  伴は一瞬考えた顔になった。それから思い出したといわんばかりに笑う。 「ああ、あれか……」 「そうだよ。あれ呼ばわりは酷いと思うけど」 「お前には関係ない」  きっぱり言い切られた。確かにその通りだ。このまま側にいたらまた余計なことを言ってしまうだろう。そして今と同じ空虚な気持ちを味わう。何度も同じことを繰り返す麻生の悪いところだ。 「──わかった。暇を見て荷物は引き払う。今日のところは加地のとこ行くわ」  たった今受け取ったスジ煮を伴に返す。しかし伴はそれを受け取らなかった。それで彼が料理などしないことを思い出す。カップラーメン一つとして伴が作っている姿を、麻生はこの一年まったく見ていない。  スジ煮を持ったまま立ち尽くしている麻生の足を進めたのは加地だ。ぐっと麻生の肩を持って伴の脇を抜ける。その時挑発的な眼差しを伴へ向けたが、伴はそこに立ったまま麻生と加地が去るのを待っていた。  麻生は呆気ない終わりに拍子抜けするしかない。柔らかい湿度はやがて降る雨の匂いを孕んでいた。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!