最終話 月は満ちて

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(生命のない物体を描いただけで仮の命をあたえ、本物にしてしまう絵筆だ。じゃあ、その筆で現に生きてるおれを描いたら、どうなる? 絵が完成し、そこに新たな命が宿れば、おれは……? 本物のおれはどうなってしまうんだ?)  思えば、近ごろの倦怠(けんたい)感はふつうじゃなかった。  ディアディンの命が絵筆に吸われ、絵のなかに写しとられていたのだ。 「さあ、レイグルよ。絵を完成させるのだ。最後のしあげをするがいい」  男に命じられ、レイグルはとりつかれたように絵筆をにぎる。 「やめろッ。レイグル。そんなことしたら、おれは——」 「だまれ! ディアディン。そなたとて望んだろう? そなたの友人をよみがえらせたいと。私がその願いをかなえてやるのだぞ。そなたのあとには、そなたの友人をレイグルに描かせればいい。そうすれば、どうだ? そなたも友人も永遠の命をえて、二度と死ぬことはない。わかるか? そなたの罪は帳消しになる」  ああ、そうか……そうなんだ。  おれが——おれ自身が魔物になってしまえば、なにも恐れることはないんだ。  リックも、ミュルトも、父さんや、母さんも、みんなが魔物になれば、彼らを邪悪とは思わない。 「そうだろう? ディアディン。それは幸福だ。ずっと望んでいたはず。私の仲間になるな? 私に忠誠をちかうな?」  ディアディンはあらがえなかった。レイグルの手がすべるようにキャンバスの上を動くのを、なかば恍惚とながめた。  これでもう、おれは悩まなくてすむ。  幸福でいられる。  過去の罪にうちひしがれることもなく、愛する人たちといられるのだ。  たとえ、そのために、人であることをすてたとしても、それが何ほどのものだろう?  たとえ、魔物になりはてたおれが、自分さえ守れない力弱い魔物をえじきにしたとしても。  長姫のあの愛すべき眷族たちを……。  ——いやだよ。ぼくは別れたくないよ。  ディアディンにしがみついて泣いた、白しっぽの姿が思いうかぶ。  ほんとうにいいのか?  白しっぽ、ウニョロやムニョロ、カラスの精、アリの精、なによりも、長姫をうらぎることになる。 (……だめだ。おれにはできない。あいつらをえじきにして、自分だけ幸福でいるなんて、おれには……)  そう思った瞬間、誰かの手が、そっとディアディンの背中をおした。  やさしい白い手が。 (長姫か……?)  ——しっかりして、ディアディン。あなたはこんなことでくじける人ではないはずよ。  長姫の存在を身近に感じる。  二人の意識がとけあって、ひとつになる。  ——おれは、おまえにふさわしくないと言ったのに。  ——いいえ。あなたは今このとき、われらを呼んでくださった。あなたの心のまんなかは無垢で清らかなのです。でなければ、わたくしもここへは来れなかった。  ——月のしずく。おれは……。  ——さあ、悪しきものをたおしてしまいましょう。わたくしが力をかしますから。  どこからか、ディアディンのなかに力がこみあげてきた。  ディアディンは自分をとらえる邪悪な魔力をふりはらった。全身の力でレイグルに体あたりすると、絵筆をうばいとる。  ——その筆を折ってください。描かれたすべてのものの魔法がとけます。  ディアディンは絵筆に両手をかけた。  絵のなかの男の形相が変わる。 「やめろ! バカなマネをするな。そんなことをすれば、おまえの望みは永遠にかなえられなくなるぞ!」 「知らなかったのか? おれの望みは魔物になることじゃない」  両手に力をこめると、あっけなく魔法の絵筆は折れた。号泣のような音をとどろかせ、突風がふきあれる。絵筆にかかった魔法が失われていく。  突風のなかに身をよじるように、絵のなかの男も消えた。  何もかもが、一瞬のうたかた……。 (行ってしまったのか。長姫……)  あの人の存在も、もう感じない。
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