第1章

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■6月28日 金曜日 「はいそこまでで結構でーす。お疲れ様でした」  ディレクターの乾いた声が部屋に響き渡った。この瞬間、水谷の通算68回目のオーディションは終わった。  あともう少しネタを見てもらえていたら爆笑がとれたはずなのに…。そんな思いをよそに、さっさと出ていけと言わんばかりに目の前のディレクターは水谷のプロフィールをしまい、外で待機している段ボール製のロボットをかぶったキワモノ芸人のプロフィールに目を通していた。      水谷は終わらせまいとディレクターに食い下がる。   「あの、ネタはいかがでしたか?」 「あっまだいたの?」 「…。」 「ネタね。う?ん、悪くないんじゃない?」 「ありがとうござ」  言い終わる前に、「じゃ次のロボヤマXさん呼んじゃって」とディレクターはADに告げた。段ボールロボット野郎が歩きにくそうにオーディション会場に入ってくる。これにより水谷のオーディションは全て終わった。 「ロボヤマXです。よろしくお願いしまーす!!」  やけに明るい声でロボットが挨拶をする。部屋の隅でコソコソと荷物をまとめながら水谷は、「ロボヤマXか。そんな芸風すぐに飽きられるのにねぇ」などと自分の置かれている状況を一瞬のうちに忘れ去り、他人の芸名や見てもいない芸風を小バカにして優越感に浸っていた。 「今回はちょっと催眠術のかかりやすい人を集めてまして、いろいろと話を聞かせてもらえたらなと思ってます」 数分前にディレクターからされた説明を、今度はロボヤマXが聞いていた。音をたてぬようそっと会場を出ていく水谷に、かかる声はなかった。  水谷心太31歳、芸歴9年。  これまで幾度となく『芸人としての華がない』『才能がない』などと言われ続けてきた。仕事らしい仕事もしたことがない。もちろんテレビに出たことなどただの一度もなかった。      それでも事務所からオーディションの話が来るのは自らの下衆なまでに下手に出る生き方にあると考えていた。売れてる先輩芸人には合コンをセッティングし、事務所のお偉いさんには「これはこれは」と言いより肩もみなぞして、あからさまに媚びへつらう。      上に立ちたがるお偉いさんたちは、こうやって下手から入って卑下する水谷のことを決して悪くは思わないのであろう。嫌われもせず、好かれもせず、そんな存在であり続けるのが彼のポリシーなのだ。
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