第二章

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「大変! 十綾姐さんが太夫にはならへんて言うてるんにゃて!」  珍しく遅れて稽古場に来た十綾に、皆が詰め寄った。口々に理由を問われる中で、平然と微笑んだまま特別語らない。  その後月野が今夜の化粧をしていると、十綾がそっと部屋に入って来た。いつもの絢爛な衣裳では無い軽装が、しなやかさを秘めた美しさを一層引き立てている。髪は一糸の乱れも無く整っているのが十綾らしい。 「……月野、あんたは聞かへんの?」 「気になるけれど、姉さんが安々と教えてくれはるとも思えへんし」  そう言うと十綾は少し破顔(わら)って、久し振りに月野の化粧を見てやった。  十綾は芸事だけでは無く、化粧の仕方や着物の捌き方等まで熱心に教える。それもただ教えるのでは無く、化粧一つ取ってみても、一人ひとりの顔立ちや輪郭、表情に合わせて一番美しく見られる方法を教えた。  仕度が終わった頃、十綾はゆっくりと話した。ぜひにと望まれる太夫にならない理由を。 「惚れとる……お人がおるんよ。そのお人が、身請けしてくれはるって」 「わぁっ……素敵! おめでとうございます!」  身請けとは、芸妓が懇ろになった客と一緒になる為に置屋から請け出されていくこと。芸妓は自分が買われた時に、置屋が払った金を返す為に働いている。なので客は、芸妓のこれからの稼ぎ分等という多額の金を置屋に支払う。  毎夜辛い思いで身を削って働く芸妓にとって、この島原から出る事を夢見るのが生きる糧。  月野は本当に嬉しくて、自分の事のように舞い上がった気持ちだった。対して十綾は落ち着いた様子で淡々と語っていた。姉さんはやっぱり大人だなぁ、なんて感心するくらいだった。 「ありがとう。月野は、太夫になりたいん?」 「へえ! うちなんかがって思うけど、芸事が好きやから、一番目指したいし」 「そう……がんばり!」  十綾は度々、月野を可愛いと言った。実家の妹と、つい重ねてしまうとも。  だからこそ、本当の事は言わなかったのだ。  しばらくは幸せな気のまま芸妓を続けてほしいと。いつか、太夫に揚がる為に精一杯稽古する幸せ。いつか、一番好きな人に身請けしてもらうのを夢見る幸せ。  でも現実の芸妓など悲しいものだと、後に知ることになる。
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