第二章

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 十綾には、心底惚れた男がいた。見世出しの頃、初めて来てくれた男。まだ若く、裕福とは言えないのでたまにしか来なかったが、本気で好き合っていた。  しかし十綾が天神に揚がった頃から、ある金持ちの客に気に入られるようなった。月野も知っている、今でも足繁く通う男。歳が離れ過ぎている上、地位を鼻にかけるようなところが大嫌いだと、女将にだけ漏らしていた。後輩芸妓の前では、どんなに砕けても決して客の悪口は出さなかった。芸には興味も示さずに酒ばかり呑む男で、大層意地も悪い。  その男は、十綾に自分の他に深い仲の客がいると知ると、金にものを言わせ荒くれ数人を雇い、殺してしまった。  それからの十綾は見ていられない程に泣き暮らして、それでも夜には憎くて堪らない客の前で舞っていた。全て月野が、置屋に入ったばかりの何も知らない頃の話。  十綾は、その(かたき)の元に嫁いで行ったのだ。  可哀相で仕方が無いと話していた女将も、身請けをしてくれるという客を断るなんて、絶対にできないことだった。  “壬生浪士組屯所”とでかでかと札の掛けてある立派な門に立つ若い隊士に向かって、大きな声でゆっくりと、でも割り込む隙を与えず言った。 「こちら壬生浪士組ぃのお住まいどっかぁ? あて、菱屋の家内でおますぅ。先日の二百両、返してもらいに来たんやけどぉ。芹沢局長はんはどちらにいやしゃりますかぁ?」 「……せ……っ芹沢局長はっ今、出掛けておいでだっ」  この女、男が自分の前で狼狽えるのは慣れているから、特に気にせず続けた。 「そうなん? なら、待たしてもらいますしぃ」  弱り顔の横を擦り抜け、屯所の中に入り込んだ。 「ちょっ……待て!」  困り果てる門番を余処に中にいる長身痩躯の隊士の処に走り、さらに声をかけた。 「すんまへん、芹沢局長はん待たしてもらいたいんやけど」 「はい? ……あなた、お一人で……ですか?」  振り返ったその幼げな顔は、落ち着き払って言った。自分の姿を見て、こんなに冷静な男に会ったのは初めてだ。 「へえ、そうやけど、なんか?」 「沖田先生! すみません」  どう見ても門番と同じくらいの歳恰好なのに、幹部なのだろうか?  
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