第二章

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 その微かな息は自分を死に追いやった者への恨み言では無く、自分が信奉し続けた者の名でも無く、愛した女の名を吐き出したように見えた。 「源さん! 斬られたのか!?」  土方は鬼の面を剥ぎ取り、井上に駆け寄った。眼に入ってしまったものを振り払うように。  山南が斬る筈の平間が、走り去る姿。  思えばこの時に、剣客の自分達と論客の山南、という隔たりが引かれたのを。  平間は芹沢一派の良心……“じいや”さながらに、デカイ“坊ちゃま”の世話をする気の良い初老の男だ。対した山南は大流派・北辰一刀流の免許皆伝者。  勝敗は、誰から見ても明らかだ。山南が逃がしたとしか思えない。  知りたくなかった。かつて斬り合いの後には血刀の“刀拓”までとっていたという剣客は、もう居ないことを。 「……っ歳さん、わしの手当はいい。総司はどうした?」  芹沢はよろめき、新撰組が居候している八木家の次男坊・為三郎の文机に躓いて縁側に倒れ込んだ。 「ぐぁあっ!」  沖田の突き……咄嗟に出来た三段突きを体躯に受けて。  あの一瞬、鴨居に刺さった刀から手を離し、脇差しで我武者羅に突いた。それが遇遇(たまたま)今までしたことも無い三段の突きになった。 「芹沢さんッ!」 「……莫迦者! 何故……っ直ぐに止めを差さん!」  芹沢に駆け寄り、膝を付いたのを撥ね除けられた。 「その甘さが……! お前の大将を殺すぞ!」  僕の剣の迷いが……先生の命を奪う……!  渾身の檄が、胸に重く響いた。 「……これで……新撰組の、膿は、抜けた」  その言葉は小さく、風穴の空いた肺腑からの空気と共に消えた。 「わざ……と……?」  答えを聞くことは出来る筈もなく、“新撰組巨魁局長・尽忠報国の士”はただ清浄な微笑みを浮かべた。 「さぁ、早く……やれ! 嫁が、待ち、くたびれる……」  宵の京、雷雨の豪音を月野の足音が乱す。下ろしたての錦の裾は、とうにびしょ濡れている。 「はぁっ……着い、た……」  立派な民家に見惚れる達筆で“新撰組屯所”と掲げられている。前を通ったことはあったが、入ろうとするのは初めて。切れる息を抑え、ぐちゃぐちゃで、今更どうにもならなそうな身なりを整える。 「左之助ぇ!」  月野が屯所を訪れたのは、ちょうど井上の声が響いた時だった。
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