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「ああ」長野は掠れた声で答える。「そのとおりだ…それなのに何もここで、担当を降りることはない…」
薫が陰りのある表情になり、彼の視線から逃れるように呟く「そんな…」
長野は薫の肩にしっかりと両手を置き、片頬に刃のような冷笑を浮かべて、問いかけた。
「僕と過ごす時間は、始まったばかりだ…正直なところまだ手探りだから…これからさらにお互いの体に溺れていけば、楽しむ余裕もできる…」
「それに君にはショックかもしれないけど、僕はこの手の経験を、何度もして来たからよく解るんだよ…」
「京都に帰る前に、仕事を一時(いっとき)忘れて過ごす、この数日のバカンスから戻ったら、もうこんなふうには、感じなくなるものさ!」
「そうしたら、元の生活のリズムを取り戻せる。約束するよ…」
薫が見つめていた…さっきまで初夏の日差しを受けて、眩しげに細めていた黒っぽい瞳が、今にも泣き出しそうな深緑色に、しだいに染まっていく。
一瞬、これで薫を説得できたと、長野は思っていた。しかし薫は、首を横に振り、彼から遠ざかるようにクローゼットにかけていたスーツに手をかける。
「どこに行くの?薫…」長野が問いかけても、和室に置いてある色鮮やかに染め上げた、ボルドー色の麻生地の衝立(ついたて)に隠れた薫の唇は閉じられたままだった…
「薫…」もう一度、長野がそう呼びかけた時、薫が衝立の陰から、胸に冷える思いを抱えたような声を出す。
「今までは、それで上手くいってきたのでしょう!あなたは。でも相手の女性たちは、みんなナイフで胸を貫かれたような苦しさを味わって、ぼろぼろに傷ついていたわ…」
「君はそうはならないと思うよ…薫」「どうしてそう思うの?」
「君は聡明で、自尊心が強い女性(ひと)だ。僕は初めて逢った時に、すぐ気がついた…」
「君のそういうところが、気に入ってるんだけどね…」長野はそう答えながら、ボルドー色の麻生地の衝立(ついたて)の陰から、薫を連れ出した。
そして、意味ありげな眩しいほどの微笑みを、薫に向ける。「もちろん、この体も魅力的だけどね…」
薫は一瞬、じっと長野を見つめ返した。それから視線を泳がせる…
その瞳が見つめていたのは、雨に洗われて紫の色を増す紫陽花だった。
長野は、薫の指に触れて見つめる…「僕が担当者だということは、このバカンスの間忘れてくれ!」
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