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まだ夜が明けぬ頃、バス停に立ち海斗は両手を擦り合わせた。
吐く息が白く、気温の低さを物語っている。
足踏みをして紛らわしてはいるが、時折来るブルリとした体の震えは止みそうもない。
いつもはあっという間の2~3分も、今はとても長く感じた。
何度か溜息を白く揺らしている内に、ようやくバスがやってきた。
ブーという音と共に扉が開き、ステップを上がりバスに乗り込んだ。
バスの中はエアコンの暖房と人の熱とが混ざった暖かさを感じほっとした。
始発の車内をぐるりと見渡すと、今日も名も知らぬ“いつもの顔”があった。
海斗は、バス後方のいつもの席へ座った。
通勤通学の乗り物というものは奇妙なもので、毎日同じ顔ぶれが、これまた毎日同じ席へ座っているものである。そして、それは何度も乗るうちに顔を覚えていくのだ。
サラサラの黒髪で整った顔の彼は、今日も乗っていた。通路を挟んで反対側の座席だ。
会社勤めなのだろう。品の良さそうな背広の上に黒のコートを着ていた。
海斗は曇った窓ガラスを手で拭き、外を眺めていた。移りゆく景色も、今日も特に変化はない。
途中、山越えのため、長いトンネルを通るのだが、暗いトンネルではバスの窓ガラスは外では無く車内を映した。
彼は、海斗が窓ガラスを通して見ている事に気付かず、一心不乱に本を読んでいる。分厚い専門書の様だ。
その横顔を見ながら、頭が良さそうだと海斗は思った。
彼は、何の仕事をしているのだろうか?そして俺は彼と同じ歳になった頃どんな事をしているのだろうか?と、ぼんやり思った。
バスは、いくつかのバス亭で客を拾い、または降ろしていきながら、いつものコースを走っていく。
「次は、桜通り3丁目?、桜通り3丁目?、お降りの方はお知らせください。」
車内アナウンスが流れた。と同時にどこかでピンポンとボタンが押され、「止まります」と書かれた赤いボタンが一斉に車内に点灯した。
彼は読んでいた本を鞄にしまうと、降りる支度を始めた。
海斗は、そっと溜息をついた。
やがて、桜通り3丁目のバス停についた。
数名の乗客と彼を降ろしたバスは、何事もなかったかのように発車した。
窓ガラス越しに、桜通り3丁目のバス停を覗くと、彼が吐く息を白くさせているのが見えた。
そして、彼は顔を引き締めると、颯爽とどこかへ歩いて行った。
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