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【九】
森川さんに会えないとしても、やはり銭湯は風情があって良いものだ。一番風呂ではないが、一人で大きな湯船を独占していると、何となく浮世を離れた気分になるものである。今時、家に風呂が無い人は居ないだろうから、きっと銭湯へ来る人とは、私と同じように、ちょっとした観光気分を持っているのだろう。とは言え、湯加減はといえば快適とは言い難い高温なので、長くは入ってはいられない。一体どういうわけでこれ程に熱いのか甚だ疑問に感じた。
浴槽は全部で三つあり、試しに隣の湯船に触ってみるが、同じくらい熱かったので、どうせ全部同じなのだろうと前回は高を括っていたのだが、今回すべてに手を入れてみたところ、一つだけが冷水になっていた。なるほど心得た。私は再び、熱い湯に暫く浸かると、次に冷水の中に足を入れてみる。すると、思った以上に冷たく感じたが、今更退くのは忍びないから、思いきって全身を入れて、更に頭まで潜ってみたところ実に快適である。勿論、暫くすると今度は寒くなってきたので冷水から出たが、この時点での清涼感は格別だった。そして、見上げる富士のペンキ絵は安っぽくはあるけれど、この気分にはピッタリだった。
とまあ、こんな風に貸し切り状態を満喫していたところで、そろそろ客が集まり始めたらしく、脱衣場が騒がしくなってきたので、私は風呂を上がることにした。
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