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森川さんは、二十分ほどすると出てきた。せっかく来たのだからもっとゆっくりなのかと思っていたが、恐らくこのあとに用事があるのだろう。……と、彼女は私の存在に気付いたらしく、声を掛けて来た。
「松下くん、もしかして近所なの?」
「うん、車で十分くらいかな。森川さんも?」
「ううん。でも、時々来るんだ」
「そう。じゃあ、きっとまた会えるね。ところで一つ訊いていいかな?」
「なあに?」
私は前回今回ともに、彼女が浴衣を着ていたことが不思議に思えていたのだ。真夏なら疑問にも思えないが、前回などまだ肌寒い日があるのに薄着過ぎるだろうし、近所でないなら尚更だ。そのことを問うと、
「只の趣味だよ。あたしは此処に来るまで銭湯に入ったことがなくてね、バスで通り過ぎる度に浴衣で暖簾を潜りたいって思ってたの。だから寒くてもちょっと我慢して通ってるんだよ」
「ふぅん。湯冷めに気を付けなよ」
すると、バスが停留所へやって来た。
「此処ってバスの本数少なすぎだよね。じゃあまた」
カランコロンと下駄を鳴らしながら慌てて走る森川さんの後ろ姿は、やはり美しかった。そんな後ろ姿を眺めながら手を振る私だったが、何だかやたらと手持ちぶさたを感じていたのは、もうこの件について発展性が無くなってしまったからである。つまり私は、美しく変身した初恋の人と再会して懐かしくも感じ、また、脱皮した揚羽蝶がどんな人柄なのかと興味を覚えたに過ぎなかったのだ。
ところが、完結した話に妙な発展性が生まれたのは、この数秒後のことだ。暖簾を潜って番台を抜けると、一番風呂を済ませた主人が、やや興奮したように話しかけてきたのである。
「おお、松ちゃん、いらっしゃい。あんた外であの美人を見たかい?」
「今出てきた人?」
「そうそうそうそう! ものすごい美人だったろう」
やっぱり誰が見てもそう思うのだと、私は何となく『勝った』という意識を持てて嬉しく思った。
「ああ、凄い美人だったよ。それこそ見たこともないくらいさ」
「だよなだよな、長生きはするもんだよ。俺は何か若返ったぜ」
すると番台から呆れたように見下ろした女将が、
「まったくさ、じいさんの癖に恥ずかしいったらありゃしない。松ちゃん聞いてよ、お父さんたら、あの娘のお風呂を覗いてたんだよ」
そう言って、煙草に火をつけてわざとらしく主人に煙を吹き掛けた。
「番台やってりゃ堂々と見てられるのにねぇ」
「男のロマンだよなあ! 松ちゃん」
老人は私の肩を引き寄せて、ガッチリと力を入れ、断れない雰囲気を作ると同意を求めた。
「覗きって……、あの境になってるタイルの塀を登ったんですか?」
老人がそこまでしているのは、何となく憎めない姿だと想像しながら女将に尋ねると、主人は私を引き摺って女将から引き離し、
「気付いてないのか?」
と、少し驚いたように私の目を覗いた。
「何を?」
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