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【十六】
野々の湯はまだ開店前だったので、暫く下駄箱前の腰掛けに座って煙草を吹かしながら、ぼんやりと道端を眺めていると、バスがやって来て、森川さんが降りてきたのである。やはり浴衣であり、美しい姿だった。
「やあ、ずいぶん早いね」
もう森川さんとは、幼馴染みというよりも最近知り合った銭湯仲間といった感覚で接するようになっていた。
「ホント。交通量が少ないから遅れはしないけど、早すぎてバスの到着時刻が読めないわ」
もう大分温かい気温になっていたので、浴衣も以前ほど不自然には思えなかったが、今日は檜の盥まで抱えており、少しやり過ぎではないかと別の不自然さを私は感じた。
「あの……、松下くん……」
「はい」
「ほら、バスって当てにならないじゃない……」
「うん」
「今日は、ちょっと遅れられない用事があってね、もしさっきみたいにバスが予定よりも早く来ちゃって乗り遅れたら大変なの……」
「うん」
「何でかって言うと……」
前置きが長すぎる。
私は元々長い話が苦手であり、なんでも結論から入って欲しいタイプだった。相手が男なら、それが順序立てようとしているのは解ったとしても、敢えて話を中断させて結論を急かすのだが、女の場合は必ず最後に要求が来ることが分かっているので、尚更イライラしてくるのだ。
森川さんの言いたいことは、要するに前回は断ったが、今回はバスが予定外に動いたら車に乗せて送って欲しいということだろうが、さすがの私も初恋の女に悪くは思われたくないので、話しが終わるのを待った。
「分かったよ、駅前まででいいんだろ?」
彼女はホッとしたように笑顔になると、
「でも、まだまだ時間には余裕があるし、別に慌てないでお風呂はゆっくりでいいからね」
「まあ、一応時間だけ決めよう」
私としては、女の子達の苦情を処理する仕事もまだあるだろうから、さほど時間を掛けたくはなかったので、三十分後にこの場所で待ち合わせることにし、其々の暖簾を潜った。
番台を抜けると、女将はニヤニヤしながら私を見て何も言わなかったが、主人は違った。
すぐに私に近寄って来ると、
「松ちゃんは手が早いね。前々から伺ってたんだがソロソロかね?」
妙に嬉しそうだ。
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