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【三】
『野々の湯』……、つまりこの銭湯から出てきた女が、私の初恋の相手だと気付いたのである。但し、私達の地元とはかけ離れた田舎町だったので、まさかとは思いながら切り出したのだった。しかし、確信めいた感覚を私が持っていたのは、目の前にいる浴衣姿の女が感動的なほど美しかったからであり、その姿こそが十年近くも前に『そうである筈だ』と、私が想像していた通りの姿だったからだ。
「えっ……、そうですけど……」
彼女にも私のことが何となく分かるのだろう。しかしハッキリしないのは仕方がない。何せ私は見るからにチンピラ風情であるし、少年の頃には無かったろう怪しい雰囲気を漂わせているだろうからだ。
「ネリ中で二年の時、一緒だった松下だよ」
「ああ……!」
どうやら思い出してくれたようだ。とりあえずは気まずさが和らいだところで、
「お姉さんとお兄さんは元気?」
長話はしないつもりだが、接点といえばそのくらいしか無かったのだ。
「二人とも子供がいるよ。でも松下くんは……、ウーン……、変わらないね」
言いにくそうにはにかみながら、私を変わらないと言いつつ、彼女が困っている姿が可愛らしかった。
変わったと言えば変わったろうし、変わらないと言われてもその通りだろう。私の風体は昔から風変わりだった。いや、姿ばかりではない、行動や言動も悪い意味で目立ち過ぎていたからだ。そんな少年が青年になって、多少着るもののセンスが変わっただけと捉えるなら、パッと見判らなくても、私だと判った後でなら『変わらない』と、言えるだろう。
「森川さんは思ってた通り物凄く綺麗になったよ。いや正直、勝った! って感じだよ」
「勝った?」
私は何時もこうだ。褒めるだけにしておけば良いのに、つい余計な私情を言葉にしてしまうのだ。
「いや、ごめん……、気にしないでくれ」
すると、銭湯の向かいにあった停留所にバスがやって来た。
「ああ、乗らなきゃ。じゃあ」
そういいながら彼女は、カランコロンと下駄を鳴らしながらバスに乗り込んだ。
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