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【四】
「いらっしゃい」
番台から四十代くらいの女将が声を掛けてきた。古そうな構えだから、てっきり老婆が待ち構えているかと想像していたので意外に感じた。
「石鹸と貸しタオルを合わせて四百六十円ですよ」
きっと、私同様に風情に惹かれて訪れる若者が時々来るのだろう。私が言われるがまま千円札を出すと、
「シャンプー、リンス、剃刀のセットを合わせると九百五十円!」
私は髯が極端に薄く、また一々洗剤を分けて使ったりはしないが、女将も解って薦めているのだろう。拒否はないと踏んでニッコリと笑う表情を見ると、断るのは粋とは言えないからそのままセットを買い、五十円の釣り銭を受け取って脱衣場のロッカーの前に立つ。ところが脱いで気付くと、ロッカーの鍵が百円を入れないと締まらないのに小銭をまったく持っていない。
すると見透かした女将が、
「コーヒー牛乳が九十円だよ!」
と、蓋を開けるための、あの何と呼ぶのか分からない針のような物を、番台から私へ向けた。
私は苦笑しながら全裸のままに財布だけを持って、ガラス製の冷蔵庫へ飲み物を取りに行こうとしたのだが、安楽椅子で新聞を読んでいた湯上がりの老人が「誰も盗まねぇから大丈夫だよ」と、声をかけてきたのだった。やはり、老人というのはこんな時間から銭湯を楽しむものらしい、などと思っていると女将が、
「ちょっとお父さん、商売の邪魔しないでよ」
どうやら、この銭湯の主人らしい。
「お前な、せっかく来てくれたお客さんに、あんまり強欲過ぎるぞ」
と、主人。
「二度と来やしないから、売れる時に売ってるんだよ」
と、女将。
「このお兄さんは気っ風が良さそうだから、絶対に嫌とは言わないよ」
女将がそう言って、再びニッコリと私の顔を見たので、そう言われて悪い気がする訳もなく、私は冷蔵庫からコーヒー牛乳を取り出し、蓋を開けて貰うために番台へ向かった。
「すみませんねぇ、お客さん」
主人が申し訳なさそうに頭を下げたが、私は軽く会釈をしただけでコーヒー牛乳を飲み干し、タオルを肩に掛けて湯殿の引き戸を開けたのだった。
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