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【五】
一人だけ先客がいて、やはり一番風呂を取り逃がしたと分かった私は、無言でかけ湯をしてから湯船へと足を入れる。しかしあまりの熱さに足を引っ込めた。そういえば、一番風呂というものは物凄く熱いと聞いたことがある。けれども、熱いから入れないとは子供じゃあるまいしあまりに格好悪い。ましてや先客がいるのだし、現に肩まで浸かっているのだ。確かに顔をしかめているようだし、彼も相当熱いだろうに、誰も見ていなくともそうしている。私は下腹に力を込めて、これも風情の一環だと自分に言い聞かせながら、無理に涼しい顔を装い、苦痛に耐えながらもゆっくりと身を屈めた。一度こうしてしまえば、後は慣れるものであるから少し余裕ができると、私は吹き抜けの天井を眺めた。
私は銭湯の高い天井が好きだ。外から見ると二階の窓ほどの高さに在る、あの窓はどうやって開け閉めするのだろう。空間とは不思議なもので、天井が高いと広く感じて妙に開放感があったりする。あの窓まで上がると、湯気は冷やされて一層白くなって、うすらぼんやりと見える天井までの距離は曖昧になる。こういう感覚が、まるで雲の中にいるようで、見上げる壁の安っぽい富士の絵が引き立つものだ。
「ふぅ……」
やっと熱さに慣れて人心地ついた私の前を、先客が横切って湯船から上がり、洗い場の黄色い椅子に腰掛けるのを見て、私は意外な光景に『しくじったかな?』と、気持ちがざわめいたのは、先客の胸が膨らんでいたように見えたからである。私は、とりあえず先客に背中を向けて、富士を見ながら考えた。
入口で森川さんが出てきた反対側の暖簾を確かに潜った。それに女将や老人も私が此方へ入るのを止めはしなかった。だから、私が間違って女湯へ入った筈はないと思う。それに、先客も何も言わなかったし、わりと堂々と私の前を通った。湯船に浸かる先客は終始熱さに耐えるひしゃげた表情だったのもあり、私は男だと思い込んでいたが、男性的な顔立ちの女性はよくいるものだ。もう一度確認のためにチラリと横目で先客を見ると、とくに慌てた風には見えないが、長髪であることだけは確かだった。
それにしても、そろそろ私の湯加減に対する限界が近い。だからといって、上がらない訳にもいかなくなってきたので、まあ、なるようになるだろうと腰を上げるしかなかった。
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