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【八】
暫く経ったある日の夕方、再び野々の湯に立ち寄ったのは、なんとなく森川さんに会えないだろうかと期待したからだ。実はあれ以来、脳裏に焼き付いた彼女の姿を忘れられないでいた。暫しバス停に立ってバスが来るのを伺っていたのは、彼女が来るにしろ帰るにしろ、バスに乗るのだろうからだ。しかしだからと言って何台も待つ気はない。一台が通り過ぎて降りてこなかったので、私は男湯の暖簾を潜った。
私のことを、『二度と来ないだろう』と言っていた女将だったが、特に驚くような仕草はなく、「いらっしゃい、四百十円。タオルは?」と、それ以上売り付けようとはしなかった。脱衣場には主人がいて新聞を読んでいたが、目を上げてニッコリと、「ああ、毎度どうも」と、歓迎してくれるようだった。私がロッカーの前に立つと、湯殿の引戸が開き、既に来ていた先客が出てきた。あの胸の膨らんだ男である。男は私の存在に気付くと、ちょっと俯いた感じになり、ロッカーの天板においた竹籠からバスタオルをとり、全身を拭きはじめた。
「百円玉はあるかい?」
女将が私に声を掛けてきたのは、鍵に使う小銭の事だった。ところがポケットを漁ってもやはりないので、私は飲み物を取りにガラスの冷蔵庫の前に立つ。すると、私の前に百円玉を摘まんだ男の手が出てきた。
「良かったら使ってくれよ。風呂上がりに飲む方が断然美味いさ」
そう言ってくれたのは、胸の膨らんだ男だった。
「善ちゃん、商売の邪魔しないでおくれよ」
決して不機嫌な声色ではないが、女将が男に文句を言う。すると、
「この人はこれからも来るから親切にしといた方がいいぜ」
と、親しい間柄だと分かる口調で男が言った。
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