第5章 帰還と躊躇

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 立ち上がって、涙を払った。  もう散らばって煌く灯りは見なかった。決めたのなら、あとはさっさと行動にうつすべし。時間はあまりない。  あたしは鞄から携帯を取り出す。ディスプレイには滝本の文字。時刻は夜の8時45分。帰ってあたしが見当たらないから電話をしたんだろう。  そういえば、あの部屋から逃げ出すのに必死で、置手紙すら残してこなかった。  画面の滝本という黒い文字を指先で撫でる。  じっと見た。  そして、電源を切り、電池パックを携帯から抜き取って、両手で力をいれて携帯を二つにへし折った。  バキッといい音をたてて割れた携帯を屋上にあるゴミ箱に突っ込む。リサイクルや分別はこの際許してください、とぼそっと呟く。  この、今の、全身のじんじんとした痛みに免じて。  自分の家に戻り、パソコンを立ち上げた。  仕事の受注をしていた自分のHPに、しばらく休業します、と打ち込む。今のところ新しい依頼は来てなくてよかった。  そして部屋を片付けだした。  ゴミを集め、カーテンを閉めてまわる。鈴木に一度帰らせて貰った時はちゃんと留守用に片付ける暇がなかったのだ。  パスポートと日本の銀行の通帳と印鑑、家においてある現金を全部出した。380万あった。それをマネークリップで小分けにして留め、ボディバックに突っ込んだ。  一泊用の外出準備をして、キャップを目深に被る。  時間は夜の10時半だった。壁の時計を確認して一人で頷き、やり残したことがないかを確認する。  そして家を出て、玄関を施錠した。  エレベーターを呼んで下界に下りる。  取り合えずここを離れてどこにいこうかな。親父がいるハワイは最後に残しておいて、まだ日本で行ったことがないところにしよう。四国にでも足を向けてみようかな・・・。それか九州。長崎くらいの都会だったらまたスリで生活も出来るだろう。  だったら取り合えず、今晩はビジネスホテルにでも泊まって―――――・・・・  頭の中で忙しく考えながらエレベーターを出て、マンションのエントランスホールを進む。  これからの行動をシュミレーションするのに忙しくて、あたしは周りを見ていなかった。  だからちっとも気付かなかったのだ。自分を見ている存在に。
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