第5章 帰還と躊躇

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 のろのろと体を起こして、血がついてなかったから捨てられてなかったジーンズを穿く。滝本に借りているシャツの上にコートだけを着て、玄関のドアの鍵は内側から閉め、荷物を持ってベランダに出た。  ここの鍵だけは勘弁してね、と心の中で詫びて、ベランダの手すりから隣のマンションの廊下へジャンプした。  大きく飛び上がって、まだ痣だらけの体が悲鳴を上げる。 「・・・いってぇ・・・」  あたしは歯を食いしばって着地の衝撃に耐え、よろよろと立ち上がった。  どこに行きたいかは考えてなかった。  だけど、あのまま滝本の部屋には居られないと思った。急に居心地が悪くなり、耐えれなかったのだ。主が不在の人の部屋に。  寒さに身をすくめながら、あたしはぼーっと自分の部屋に戻るために電車に乗る。  久しぶりの地元もあまりよく見ないで淡々と家に帰った。  やっぱり郵便物がたまっていた。  ほとんどダイレクトメールだったので、まとめてゴミ箱に突っ込む。  そして借り物の服を脱ぎ、自分の服に着替えた。  お札をポケットに突っ込んで、厚着をして家を出た。  ふらふらと駅前まで行ってから、去年岡崎さんに教えて貰ったビルの下でその存在に気付いて、屋上に上がった。  冬の夜、乾燥した風が吹いている冷えた屋上で、あたしは一人で街を見下ろす。  キラキラと今日も輝いて、その灯りの一つ一つに誰かの存在があり、その人生があるのだな、と思った。  手すりにもたれてそれを見ていた。  寒かったので、マフラーに顔を半分埋めて。  今年の冬は寒くなるのが早い。まだ11月の半分なのに・・・。すぐにかじかみだした指をさすって暖める。  去年の夏、岡崎さんがここで言った言葉を思い出していた。 『今日は、何人の人生と交差したんだろうって』  それが不思議だから、嬉しいから、俺はカフェをやめないって。そう言う岡崎さんの横顔を眺めていたんだった。  ・・・交差、した。確かに。  そしてその数人の人たちはあたしの中で日に日に存在が大きくなり、今では大切なものになってしまった。  引き換えに、意に染まない仕事を引き受けるくらいに。
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