1 日常

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 日が昇りきり、鳥達の合唱が始まる。夜のざわめきが消えた街は静かにまた鼓動を始める。その様子を丘の上の古ぼけたベンチから眺めていた。  今日から新学期、時刻は5時を過ぎている。このままここにいるのもいいのだが、流石に出席日数が危ない領域だ。煙草の火が消えるのを待ち、何時もならばそこらに捨てて踏みつぶすのだが、先程の高野と言う男の言葉がチラついた。小さく舌打ちをし、ようやく灯火の消えた煙草を握りつぶし、ポケットに突っ込む。 「面倒だ」  誰にいうでもなく、俺の口からこぼれた言葉は、誰かに届くことはない。朝の冷たい空気の中に溶けて消えた。  ふと視線を横に向けると、ベンチに女性が座っていた。が、風がふき、その勢いの強さに目を閉じる。次に開けたときには、女性の姿などなく、古ぼけたベンチがあるのみ。  手には手首が生えていた。  おかしな言い方ではあるが、15年かけて手まで現れたと言うのに、少し目を離した隙に手首まで現れている。何か起こるとでも言うのだろうか、その宙に浮かぶ、透き通り、透かして向こう側を見ることのできる手は何かを予期しているとでも言うのだろうか。 「あほらし」  誰に言うでもなく、俺の口からこぼれた言葉は、またしても、朝の冷たい空気の中に交わり、そして、やがては溶けて形をなくす。  俺の独り言を聞いているのは体のない、手首だけの存在だけだった。  丘を降りながら、朝の空気を肺いっぱいにとり込む。冷たい空気が肺の内側から貫かんばかりにチクチクと突き刺さる。そんな事を気にすることなく、徐々に鼓動を開始し始めた街へと向け、ゆっくりと足を動かした。
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