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大正10年11月12日
ワシントン海軍軍縮条約が開かれた。
当時、日本では海軍軍備の拡張に励んでおり、八八艦隊計画艦の一番艦で世界初の41センチ砲を搭載した「長門」が、竣工していた。
この時、海軍軍備の拡張に励んでいたのは 、欧米諸国も同様であり、海軍関連の予算は膨れ上がる一方だった。
各国の政府は、このままでは遠からず財政の破綻を招くと懸念し、軍縮条約によって、建艦競争に歯止めをかけよう考えた。
しかし、この会議は決裂に終わり、建艦競争は、それまでにも増して熾烈化した。
だが、戦艦、巡戦の建造には、巨額の予算がかかる。
新造艦の乗員を確保するため、海軍軍人の大幅な増員も行われ、人件費も増大した。
「このままでは、海軍に国が食い潰される」
「我が国は、敵ではなく、自国の海軍によって攻め滅ぼされてしまう」
といった財務官僚の悲鳴は、年ごとに大きくなり、各国は今度こそ競争を終わらせるべく、昭和3年、6月30日、スウェーデンの首都ストックホルムで、二度目の軍縮会議を開催した。
会議は難航し、およそ三ヶ月に及んだが、同年の10月3日には軍縮案がまとまり、ストックホルム軍縮条約が正式に調印されるに至った。
条約は、日本海軍に八八艦隊全艦の保有を認められ、既に竣工した艦、建造中の艦はもちろん、未着工の艦についても、計画通り建造可とされた。
米英の新鋭艦についても、同様に保有が認められたが、戦艦、巡戦以外の艦種には、三国ともに同じ量の保有隻数が定められた。
また、三国とも戦艦、巡戦はこの年から、向こう10年間は、条約で認めた艦以外の新造は認められない事になった。
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