第1章

13/14
前へ
/66ページ
次へ
 小さい頃、松浦は紗奈が好きだった。自分よりずっと強くて時に気弱な自分を叱咤してくれた。  その優しい関係は紗奈が家族とギクシャクし始めて徐々に崩れていった。  紗奈が中学に上がってからだったと思う。  家に女性は二人しかいないのに姉と母はそりが合わずよく大声でケンカをしていた。  生来の負けず嫌いな姉に母は口答えをしない大和撫子を求めた。母は少々エキセントリックな所があり姉が従わないと狂ったように怒鳴りつけその度に手を上げていた。  怖かった。紗奈を怒鳴りつける母も怖かったし、母をそうさせる紗奈も怖かった。  ある時期から紗奈は家族の誰とも喋らなくなり、高校を卒業すると同時に家から出ていった。  そんな紗奈と再会したのは当時同課の同僚だった白井に「会わせたい人がいる」と連れて行かれたバーだった。  「ゆいちゃん久し振り」  そう言ったバーテンに見覚えが無くて首を傾げ、笑われた。ショートカットなんて、母が決して許さなかったから見たことなかった。  それが久々に見た紗奈の姿だった。  紗奈からメールを貰ったのは……そう、あの後最初の月曜だった。  だいぶ経つなぁ、これは本気で怒っているかも。そう思うとぞっとする。  「おう。紗奈にかわいいゆいちゃんが落ち込んでるって話したらじゃあ飯食わせるっつって張り切ってたぞー。腹ン中空にしてこいよ」  「……うん」  口の端を上げて笑い白井がまた天ぷらを攫っていった。今度は鱚だ。  心底楽になりたいと思うのに、こういう時間が無くなるかも、と思うとそれも辛い。  「それ、美味しい?」  「ん?ああ、美味いぜ、食ってみろよ」    お行儀のよろしくない白井が齧った鱚を口元に突き出した。  「ここにあるからいい」  眉を潜めると白井がくくっと肩を揺らした。  「ケッペキ」  「白井がガサツなだけだ」  またくすくすと笑う。  無くしたくない。やっぱり無くしたくない。あんまり持っていないから、今持ってる全て無くしたくない。  心の中の天秤が揺れる。さっきまでいつもと違う形に傾いていたそれはゆらりと揺れて今日もいつもと同じ形に落ち着いた。  いつもと一緒。これが一番なんだ。  分かっているのに胸が苦しくて、誰にも分からないように小さくため息を落とした。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

328人が本棚に入れています
本棚に追加