第1章

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 斜めにした顔にはてなを貼り付けている。これは知らない。きっと、ではなく知らない話を聞いた白井の顔をしている。  「なに、そんな噂あるの?」  「……そう聞いた。それらしいことも聞いたことない?」  「いやぁ、ねーなあ。いや……つーか宮倉って……確認するけどオタクの宮倉じゃないよな?受付とか総務の派遣さんとかだよなあ」  首を捻り空中のどこかを見ながら唸る白井は今、うちの女性社員をひとりひとり思い出しているのだろう。  「いや……宮倉って名前多分うちにしかいない」  「やっぱそーだよなあ」  半分残ったビールを飲み干した白井にビールを足す。……自分のグラスにも。  「いったい誰だよ、んな噂があるなんて言ったのは」  「いや……うん、いや無いならいい」  はーっと息を付いた。無いんだ。無かったんだ。よかった、本当に。  「しっかし宮倉ってなあ。そりゃないよなあ」  「……」  苦笑いで二杯目のビールを煽る白井に言葉が詰まって出ない。  「ホモじゃあるまいし、なあ。あ、これイカか……こっちと換えて」  「……あ、うん」  言葉は時に凶器だ。  松浦の決断を突き刺した言葉はもう発した時点で過去になる。  きっと白井はもう今言った言葉を忘れている。いやこう言ったよな、と聞けば頷くだろうが自分で思い出すことはないだろう。でも自分は一生覚えていそうな気がする。  言えない。もう無理。うすら笑いを浮かべた松浦はご指名のきゅうりと梅が入った酢物の小鉢を差し出した。  「なんだよ、それでそんなに落ちてたわけ?」  「いや、うん、……その」  イカを箸で掴んでは離していると少し黙っていた白井が「で、本題は?」と訊いた。  そうか、自分には一大事でも白井にとっては面白くもない冗談で。 もし噂で聞いていたとしても白井ならその場で「ホモじゃあるまいし」と言っていただろう。松浦がそうだ、なんてきっと爪の先にも思っていないだろうから。 こんなに心配する必要無かった。 安堵していいのに気持ちは浮上出来ていない。 どうしてだろう。 「……何?仕事のこと?」 もう本題は聞いたのだけれど、何か他に話を造った方がいいんだろうか……  頭が鈍く痛む。
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