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川から吹き付けてくる風は冷たいが、その冷気の中にほんのり太陽の暖かい匂いを感じるのは気のせいだろうか。
岩村はふと、生前、吉良が北海道の冬の風は「暖かい匂いがする」と言っていたのを思い出した。
普段、寡黙で仕事以外のことは滅多に口しない吉良が妙に抽象的な話をしたので、記憶にとどめていた。
思い起こせば吉良義人という男は不思議な男だった。
頭脳は明晰、語学堪能で、普段はおとなしいがここ一番となると鋭い舌鋒で相手を圧倒する。
かと思えば、よく気配りもきき、決して自分が目立とうとするタイプでもなかった。
財務省という特殊な世界の中では、吉良のもつ頭脳や弁舌は大いに期待された。いや。利用された。
それは本人の望むところではなかったのではないだろうか・・。
吉良の異例の昇進は、同時に吉良にとっては望まぬ敵をつくることにもなった。
吉良の持つ繊細さや優しさを、政治や官僚社会の毒々しいまでの生臭さが吉良を人知れず蝕んでいったのかもしれない。
いくら優秀でも、まだ20代の若者である。
吉良を思うとき、吉良が時折、心を許した者にだけ見せる気弱な笑顔は、そんな吉良の心の矛盾を顕していたのかもしれない。
吉良は亡くなって、吉良にかけられた周囲の期待は岩村に向けられている。
それは岩村にとってやはり重荷でしかなかった。
吉良がいなくなっても仕事は粛々と進んでいく。
それは吉良という存在を最初から無かったもののように平常通りにだ。
吉良が抱えていた闇を岩村は少しばかり理解できるようになっていた。
「岩村さん。あの人じゃない。」
物思いに耽っていた岩村は、玲子の声で現実に引き戻された。
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