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「やっ、やめてっ!」
俺の指先が柔らかそうな肌に触れそうになった瞬間、彼女が肩を縮めた。
何なんだ……その怯えたような目は。
発する言葉のままに、本当に俺の事を嫌っているのか?
愕然として、目的を失ったその手を諦めるようにして引っ込めた。
「…簡単にそういう事が言えちゃう人なんだ…最低。…彼女がいるのに」
そう言って、彼女は俺から目を背ける。
「彼女?」
……どういう事だ?
まさか、雪菜の事を知って?―――いや、そんなはずは無い。
雪菜の事は葵ちゃんしか知らない。雪菜の状態を知ってる彼女が、そんな事を軽々しく他言するはずが無い。
「……その場限りとか、浮気とか、男女のぐちゃぐちゃした関係なんてうんざり。自分を偽って生きて何がいけないの?私とあなたの共通点なんて、一つもありませんよ。あなたは欲しいものを何でも手に入れられる人じゃないですか」
水を得た魚のように、彼女の口から次々と苦々しい言葉が乱射される。
俺が欲しい物を何でも手に入れられる?
何を言ってるんだ…
見も知らない男に最愛の妻の心を奪われ、体を奪われ。
東大に苦労して入ったものの、将来医師として描いていた夢と可能性も全て捨てて来た。
夫として……いや、男として【失格】の烙印を押された俺に残されたものは、父親としての使命ただ一つ。
咲菜が俺の唯一の慰み。娘が無償の愛を注ぐ事の出来る唯一の……。
安藤麻弥……
この感情すらも許されないと言うのか?
……あの日から、俺の心を蝕み続ける闇。
妻に裏切られた憎しみに駆られ。
妻の存在をこの世から、娘の記憶から消し去った罪悪感に駆られ。
命が朽ち果てるまで、心を閉ざして生きて行けばいいと言うのか……。
「俺は、何に満たされている?」
―――俺の本当に欲しいものなど、君には到底理解し得ない。
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