以蔵鬼哭

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「…お、お、お前んは、ここ、こ、怖くないがか?」  はいと、応えるおりんの姿が、ぐにゃりと歪む。    何時からだろう。  時折、視界が歪むことがある。  物を掴もうとするとき、遠近感が狂う時がある。  まるで左の眼と右の眼が別々のものを見ようとしているかのような違和感を感じるのだ。  日常生活に支障がないとは言い難いが、騒ぐほどのことでは無い。  なにより、以蔵が仕事をするときだけは、絶対に歪むことはなかった。  むしろ覚者の眼でも宿ったのかと思えるほど、絶妙に良く観得た。  相手の怯える表情から噴き出す汗の雫。  動く筋の脈動まではっきりと見て取れた。  むしろ以蔵の仕事にとっては、まさに慧眼だった。    だが、今は駄目だ。  おりんとの、日々の中では視界の歪みが酷くなる。    と、以蔵は首筋の後ろの産毛がぞくりと疼く。  冷え切った指先で、そっと撫でられているようだった。  殺気とは異なる、もっと異質で重苦しい。  氷で出来た鎖が、傷をこじりながら浸み込んでくるような冷気に、堪らず以蔵は振り返る。背後にはうっそうと茂った樹々がそびえ立ち、足元を熊笹が埋め尽くしている。  今宵、何度振り返った事か――。  熊笹の間から、錆びた板状の金属が突き出していた。  それは朽ち果てた兜の鍬形だった。闇に眼を凝らしてみれば樹々の間草々の間に、朽ちた具足が見え隠れしている。  枯れた蔦が巻き付いているのは、かつての槍の骸だ。    ここはかつての古戦場の跡・・・  それは兵どもが夢の残滓――。  以蔵が憧れていた、古の武士の晴れ舞台の残骸・・・    だが今は、それがたまらなく――おそろしい。    以蔵とて最初から好んで、このようなところで夜を明かそうとは思ったわけではない。  疲れ切った身体で火を起こし湯を沸かし、途中手に入れた魚を焼き、腹を満たし落ち着いて、初めてここが、そのような場所だと分かったのだ。  だが気が付いたところで、慣れぬ夜の山道を強行に歩いたおりんにこれ以上の無理を強いるわけにはいかない。それに何より、これ以上の夜道を歩くだけの気力は以蔵にも残っていなかった。  結果、二人は腹をくくり、ここで夜を明かす覚悟を決めたのだ。  だが、そう決めてみても、以蔵は堪らなく落ち着かなかった。    がさり――。    熊笹が音をたてて揺れる。    がさり――。  がさり――。
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