以蔵鬼哭

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「ひ、ひぃ…」  びくりと、身を震わせたのは以蔵だった。  傍らにある刀の柄に、つい手が伸びる。  今年は冬が遅く、未だ雪も無い。  大方、栗鼠でもいたのだろう。  まさか本気で古戦場の鎧武者が、化けて出たとは思わない。そもそも、そのようなものがこの世に居るわけがない。  先程、おりんに言ったばかりである。  もしも、死人が化けて出るなどと言うことがあるとしたら、自分など、ここに居るわけがない。  そう、当の昔に憑り殺されている――。  自分が未だに生きていることが、亡霊などいないという、何よりの証であろう。  それでも以蔵は、身がすくみ上がるほど怖い。 「そんな顔をなさらないで」  わたくしも怖ろしくなりますからと、刀を掴もうとした以蔵の掌に、おりんが自分の掌を重ねる。  そしてそっと、以蔵の眼を覗き込む。 「…そ、そ、そそうか、そうじゃな。わしがついちょるきに、お、怖ろしゅうもんなど無いきの――し、心配いらん…」  引くおりんの手に、震える自らの手を重ねた。 「はい」  おりんが微笑むと、以蔵の震えも不思議と落ち着く。  歳は以蔵よりはいくらか上なのだろうと思う。  どこか浮世離れした佇まいは、元々が武家の御内儀だったと言われれば、そんなものかと納得した。    夜は…怖ろしゅうございます――と、以蔵を見上げる瞳には、ぞくりと、匂い立つような艶気がある。    それは元来、おりんに備わっていた業であるのか。  それとも辛き日々を行く抜くために身に着けた、処世の術であるのか・・・いずれにせよ、以蔵にとってはどうでも良い事である。  だが、そんなおりんを見つめると・・・以蔵の左の眼から、決まって一筋の涙が頬を伝うのだ。  おりんはそれを見ると、なぜか悲しそうに眉をよせ、微笑む。 「お、おりん――」  以蔵は覆いかぶさるように、おりんを押し倒した。  焚火の炎に、ふたりの影が大きく踊る。 「――りん…おりん――わしは、わしは…」  己の裡の恐怖に耐えられなくなると、以蔵はおりんの温もりを欲した。そんなとき、おりんは必ず以蔵の眼を見つめる。  その視線は、以蔵の心の裡を深く抉るようにまっすぐだった。  それは以蔵を見つめているというより、瞳を通してなにか深淵の淵にある虚ろを覗いているようで、以蔵はとても悲しくなった。
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