第1章

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シャナンの黒々とした髪が風に撫ぜられてふわりと揺れ、その白い頬に触った。その髪を邪魔くさそうに手で耳にかけると、細いうなじが月に照らされ、白いローブを羽織ったシャナンは、まるで月の女神のように輝いていた。 その様子を、窓の傍の老木に一羽、蝙蝠がぴくりともせず潜んで見つめているのを、この時のシャナンは知る由もなかった。   酒屋の噂 「また娘が襲われたって」 「首に牙のあとがあったらしい」 「やっぱり吸血鬼の仕業だ」 「あの異国から来た伯爵夫人が怪しいのに、このまま野放しにしていていいのか?」  村の飲み屋では、毎夜吸血鬼の噂で持ちきりだった。今夜も、鍛冶屋と赤ら顔の猟師がひそひそと話していた。すっかり夜も更け、雪も降りしきり、客はこの二人の他に旅人らしき若い男の泊り客が、一人静かに酒を飲んでいるだけだった。  静かな酒屋内に、暖炉の薪がはぜる音が響いた。 「なんでも、エッカルトザウ伯爵が引き止めているってえ噂だ。不思議なことに嫉妬深いあの奥方も何も言わないそうだ」 「魔力で操られているのかもしれん」 「何とかしないと、村の娘がみんな餌食になる! わしの娘も――」  ほろ酔いを通り越し、酩酊状態になっている猟師は突然大げさな声を出し、両手で顔を覆った。 「そのことだが、実は神父様に協力してほしいと相談してみた」  鍛冶屋がしーっと口に人差し指を当ててから、真顔で言った。 「神父って、バートリ神父様のほうか?」 「そうだ」 「だめだ、あの人はいい人だが、シャナンと夫婦になるんだぞ。ってえことは、エッカルトザウ伯爵の息がかかっているってことだ」  鍛冶屋の話を聞いて、酔いがすっかり吹っ飛んでしまった猟師が、日に焼けたいかつい手を大げさに横に振って顔をしかめた。シャナンはエッカルトザウ伯爵の愛人の子。伯爵に会ったこともないこの猟師でさえ知っている、公然の秘密だ。まかりなりにも、シャナンは伯爵の娘だ。バートリ神父は結婚を反対されたくないために、伯爵に逆らわないだろうと猟師は考えたのだった。 「爺さん神父はもうろくして役に立たん。頼れるのはパウル・バートリ神父様だけだ。神父様はまず伯爵夫人に会って確かめるといっていた」 「信用できるか?」 「俺は神父様を信じる。身分の差など関係なく接してくれるお方だ。きっと、正しいことをしてくれる」
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