第1章

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酒屋兼宿屋の店先にある老木のこずえに、若い男が腰掛け、帰路に着く二人の姿を見下ろしていた。その男は、鍛冶屋達が見たという旅人だった。その高さまで上るのは容易ではない。ましてや、先ほどまで酒を飲んでいて数分のうちにするすると登っていくなど、到底無理な話だ。それを成し遂げられるのは、人ではない。その男は、姿を変え、村の様子を伺いに来たカルンシュタイン伯爵夫人だった。 「それにしても、奇妙だ。この狭い村に同胞がいるというのか? それとも、我が一族を語る輩がいるのか」  村の吸血鬼の噂は、カルンシュタイン伯爵夫人の耳にも届いていた。だが、伯爵夫人には身に覚えのないことだった。この村は血で汚さない、あの娘がいるから。そう決めてこの村を訪れたのだった。 「バートリ神父か……こちらから出向いてやろう。あの娘を本当に幸せにできる男なのか、私が見定めようではないか。そして、あの娘の幸せを確認したら、早々にここを立とう。私は災いの種になるだろうから」  寂しい笑みを一瞬浮かべ、音もなく地上に降り立った伯爵夫人は、雪煙と供にその場を立ち去った。 こうしてバートリ神父とカルンシュタイン伯爵夫人は顔をあわせることとなり、運命の歯車があらぬ方向へと動き出したのだった。   愛しくて  もう会わない。  カルンシュスタイン伯爵夫人にそう拒絶されても、シャナンの想いは一層募るばかりだった。  シャナンの心には、婚約者、パウル・バートリへの思いはかけらも存在していなかった。  カルンシュタイン伯爵夫人に会いたい。会って、この気持ちを伝えたい。こんなにも惹かれるのは何故なのか。恋に理由などないのかもしれない。だが、それだけではない何かを感じる。自分を見つめるあの瞳。  子をいとおしむ母のような瞳。最愛の人を愛でるような瞳。それを否定するような冷たい瞳。どの瞳も、シャナンを悩ませ、伯爵夫人のことを片時も忘れることができないのだ。  そんな折、カルンシュタイン伯爵夫人がこの村を発つという噂を、エッカルトザウ伯爵の城に使える洗濯女から耳にした。その夜、シャナンはいても立ってもいられなくなり行動した。寝衣にコートを羽織ったシャナンは吸い寄せられるように、ふらふらとカルンシュタイン伯爵夫人の元へと向かったのだ。
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