第1章

17/42
前へ
/42ページ
次へ
 伯爵夫人は口の端で笑った。初めからシャナンの気持ちに応える気はないのだろう。まるで子供扱いだ。シャナンには伯爵夫人が自分の気持ちに気づかぬ振りをしているように思えた。それでも、シャナンは傍にいて欲しいと目で訴え続けた。 伯爵夫人は根負けし、「いいだろう。お前が眠りにつくまで傍にいてやろう」と言ってくれた。  朝まで一緒にいたい。絶対に眠らない。  シャナンはベッドにうつぶせの状態で、熱を帯びた眼差しを伯爵夫人に注いでいた。  伯爵夫人はベッドの傍らにある肘掛け椅子にゆったりと腰掛け、コーヒーテーブルに置いた蝋燭の明かりを頼りに、本に目を落としている。シャナンの視線など気にも留めず、熱心に文字を目で追い、シャナンの存在は無視されていた。こんなにすぐ傍にいるのに気に留めてもらえない。  ほんの少しでも、こちらを向いてくれないだろうか。シャナンは、瞬きもせずに伯爵夫人を見つめ続けた。 焦げ茶色の後れ毛が、時折肩からさらりと落ち、それを片手で耳にかける。伏せた目は、文字を追って僅かに動き、その度に長い睫毛が揺れる。旅装束の男姿ではあったが、白い肌に肉感的な真紅の唇は悩ましく、手を伸ばして触れてみたい衝動に駆られてしまう。足を組み直す仕草。ページをめくるしなやかな指先。 どうしてこちらに目もくれないのか。その指は触れようとしないのか。 シャナンは自分勝手な恨みがましい視線を投げつけていた。 「婚約者がいるときいた。皆に心配かけるようなことはするな」  その視線の意味を見て取ったかのように、伯爵夫人は本から目を離さず、冷淡な言葉でシャナンをぴしゃりと叩いた。  伯爵夫人はシャナンの思いをわかっている上で、言っているに違いない。それが分別のある見解だろう。だが、今のシャナンはもう他のことがどうなろうとたいしたことではなくなっていた。伯爵夫人のことと比べたら、養父母が悲しむこと、バートリ神父が落胆するだろうことなど。 「婚約は、間違いでした」
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加