第1章

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  吸血鬼小説「血」過去編   美貌の伯爵夫人。  そのエキゾチックな琥珀色の瞳に見据えられると、逆らうことを忘れてしまうという。  カナーヌ・カルンシュタイン伯爵夫人。 中欧。ドナウ河を下り、ウイーンの東方二十五マイルほどのところにある牧歌的な小さな村に、何の気まぐれか、その伯爵夫人は滞在した。 二月、平野部にも雪が降る季節に、遥かカルパチア山脈を抜け、よんどころない事情で従者を従えて、女主人一人、はるばる旅してきたのだという。 仰々しい四頭引きの馬車は、いかにも身分のある人物の旅行馬車だと、一目で見て取れる代物だった。 青白い顔をした若い従者に手を取られ、馬車から降り立った彼女は、さながら、白い雪景色の中に凛として咲く、大輪の赤い薔薇のようだった。 抜けるような白い肌に、ドレスと同じくらい鮮やかな真紅の唇が良く映えている。琥珀色の神秘的な輝きを持った瞳。女性にしては上背があり、均整のとれたすらりとした体、艶やかな焦茶色の長い髪。品の良い立ち居振る舞いの中にも、威厳のある存在感がにじみ出ているその様は、高貴な生まれであることを見せ付けていた。  土地の豪族、エッカルトザウ伯爵は、金貨を手土産に現れたこの美しい異邦人を一目見るなり痛く気に入り、早速、居城に招いて手厚くもてなした。 伯爵夫人が一言、「寂しい」とため息をつけば、伯爵は早速、近隣の貴族を招き、毎夜夜会が催されることとなった。 娯楽の少ない寒村において、村人たちの間では、この美しい客人の奇妙な噂話で持ちきりになった。  地に響く、竪琴のごとき声音。その声音を耳にし、その琥珀色の魅惑的な瞳を目にした時から、熱い誓いをした恋人さえも、その麗しい足元へとひざまずき、とりつかれでもしたかのように、毎夜、伯爵夫人に逢わずにいられなくなるという。 城の一室は、カルンシュタイン伯爵夫人の招きいれる見目麗しい紳士淑女たちが訪れるようになり、エッカルトザウ伯爵も例に漏れず、カルンシュタイン伯爵夫人の言いなりになっているというのだ。  毎夜派手な夜会とは、伯爵様のあの変わりよう……。  そう嘆く者も側近の中にいたはずだが、いつの間にか、異を唱える者はだれ一人いなくなったというのだ。  カルンシュタイン伯爵夫人は魔女なのではないか。  不遇の運命により、城のすぐ側にひっそりと住む、シャナン・エアラッハの耳にも、その噂は届いていた。
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