五章 1

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右手を緩やかに握り、中指の第二関節を突きだし、目の前の板に打ち付ける。 コン、コン。 よく響く小気味の良い音は、その板の向こう側に広い空間があることを示している。 「だぁれ?」 中から変声期を迎えていない、幼く、可愛らしい声が聞こえた。 声のみを聞く分には、無垢なお姫様が居るのではないかと想像させる。 だが、残念ながら、違う。 この板、扉の向こうに居るのは、穢れ、爛れきった“魔女”なのだ。 「私です」 「あ、そう」 ……以上だ。 それ以降は待てど暮らせど中から言葉は出てこない。 普通は戸惑うだろう。 用があるから戸を叩いたのだ。 誰かと問われたから答えたのだ。 ならば、中に居る者は外に居る者へ対し、“入れ”だの、“待て”だの指示を出すものだ。 否、出さねばならない。 普通ならば。 ……普通ではないのだ。 中に居る魔女は。 否、彼女と私の関係性が、か。 故に、私は待たず、暮らせず、戸惑わず、なんの迷いもなく扉を開き、中へ入る。 「忙しそうですね」 「これが暇に見えるのなら、いよいよ貴方も脳か目が腐り始めた証拠ね。もう死んだ方が楽なんじゃない?」 「魅力的な提案ですが、生憎まだ腐っていないみたいです」 あら残念、と彼女は手元の書類から目を私に移すこともなく言う。 しかも、冗談ではない。 本心なのだ。 別に私と彼女は憎み合っているわけでもいがみ合っているわけでもない。 わけでもない……と言うのに“本心”だというのはそれはそれで問題なのだが。 だが、もし彼女が、本気で私を殺したい、と思った時、私には抗う術などない。 実力的なこともあるが、それ以前に、彼女は私に対し、“絶対の命令権”を持っているのだ。 『支配者(ロード)』と『下僕(エルダー)』 それが私達、ロードヴァンパイア『カーミラ』お嬢様とエルダーヴァンパイア『カイン』の関係。 それ以上でもそれ以下でもない。 お嬢は私に“死んで欲しい”と思いつつも殺す気などなく、私もお嬢を嫌っているわけでも愛しているわけでもない。 「用は何?」 漸くお嬢の口から、最初に言うべき言葉が零れる。 だが、実はお嬢の対応は間違ってはいなかった。 そもそも、 「そんなものありませんよ?」 “用があるから戸を叩く”という前提から間違っていたのだから。
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