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初めのうちはいい。恋の駆け引きを楽しむように矢代を誘惑し、彼の慣れた手管に酔う。気が合えば、店の外でも気軽に声を掛けてくれる事を都合良いように勝手に解釈して。盛り上がって。嵌まりこむ。
そして、そのうちに焦れてくる。あと一歩を踏み込んでこない態度に。
矢代の心が厚い壁で覆われていることに気付くのは、その後だ。どんなに親しくなったと思っても、その壁の外側までしか近寄れない。
(そう…わかってる)
その中には、彼のかつてのライバル、渡辺貴弘しか入れないのだ。
アキだけが知っていた。まだ高校生だったころから、矢代がずっと一途に渡辺しか見ていないことを。
アキも同じ年月、矢代を想ってきたから。
三年前。矢代があの店に訪れた日。それは彼が渡辺に振られた日だった。以前から渡辺には恋人がいた。それでも告白して…結局、振られた。
『俺ね、今日、フラれたんよ。…だから、もしかしたら変なこと口走るかもしれんけど。見逃してな?』
初めての夜。ホテルに誘われて待ち合わせしたコーヒーショップで、突然言われた。そんなこと、言わなければわからないのに。そのときはそう思った。でも、彼とこうして付き合ってみて、アキはやっとその言葉の意味を理解した。
相手を楽しませることに、意味があるのだ。
矢代にとって、一夜の相手も、セックスフレンドも、自分を試すテストみたいなものだった。自分の快楽のためではなく、その時を共に過ごすパートナーに、いかに極上の心地良さを味あわせるか、に集中していた。奉仕することで、パートナーを心身ともに喜ばせることで、自らの安らぎを得るように。
そうすることで、自分の存在を確かめているように。
でも、それはとても悲しいことだと、アキは思った。矢代は自分が誰かに愛されることを、無意識に拒んでいるようにしか見えない。
(あの人の気持ちしか、受け入れられないの…?)
「忍さん…次、いつ会える…?」
「そうやなぁ…」
シャワーを浴びて濡れた体。プロのアスリートとして活躍する、鍛えこまれ、磨かれた完璧なボディ。
コッチ嗜好の男でなくとも、一度は憧れる彫刻のようなプロポーション。
幾度となくあの体に抱かれているのに、魅入ってしまう。
彼は薄明るい部屋の中、腰にタオルを巻いただけの姿でミネラルウォーターのボトルをホテル備え付けの冷蔵庫から取り出していた。
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