第1章

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土曜でも、今日は会社のグラウンドで、チームメイトとの合同練習があるから。と、朝食を共にする間もなく駅への道を急いでいた。 「え。体力だけは自信ありますから」 ニッコリ笑う顔が可愛い。そんなことを言ったら怒るだろうか。 アキがプッと噴出しながら斜め上にある顔を見上げていると、矢代の笑顔がちょっと寂しそうになる。 「じゃ、…ここで」 駅に、着いてしまったのだ。 「うん、またね」 ポン。と寂しそうな笑顔のまま、アキの背中を叩いた矢代が駅の中に消えていく。人ごみの中に入っても頭ひとつ、いや肩から上がとび出ているから、本当に消えるまで見送るのは時間がかかる。それでも、アキは毎回、見えなくなるまでその愛しい後ろ姿を見送っていた。 (我ながら、未練たらしい……) 地下鉄へと下りる階段を、つまらなそうにてくてく下りながら体に残る矢代の感触に、胸が鈍く痛むのを感じた。 「もう…会いたいよ…俺」 さっき別れたばかりなのに。 三年もこんな関係を続けている。自分の想いは膨らむ一方で、望みのない未来に、いっそこんな関係やめてしまえばと思う。こんな真綿で首を絞められるような片思いなら、ちゃんと気持ちを打ち明けて玉砕してしまったほうがマシだ。 そう、思うのに。 あの手が、あの腕が、あの胸が。 あの声も、あの仕草も、微笑みも。何もかもが愛しくて。 ――堪らなく、愛しくて。 幻でも…手離せない。 「俺…どうしたら良い?」 誰に問うでもなく、こぼれた。 気だるい体を自分で支えるように腕を掴み、叱咤する。 (甘えちゃ…ダメだ) それでなくとも矢代はプロのアスリートだ。今日のように眠らせずに返すなんて、シーズン中でなくとも大きな負担になる。 日本の投擲は弱い。最近ハンマー投げで有望な選手が出てきたが、槍投げ会は世界のレベルとあまりにかけ離れていた。矢代はここ数年、日本国内でのランキング1位を維持しているが、それでもその年の記録によっては、オリンピックに行けないことも有り得るのだ。 セックスフレンドである前に、彼の一番のファンとして、アキは自分が彼の負担になることは絶対に許せないと思っている。矢代は今27歳。精神的、肉体的、経験的にバランスが取れた一番いい時期だ。それは前大会での記録も証明している。そして来年はオリンピックイヤー。いわば矢代の勝負年。本来なら、マイナス要因はすべて排除すべきなのだ。
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