第1章

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   序章  ― ピアニスト ― 「はい。マスター、これ、お土産」 「夜のカフェテラス?」 「へぇ…よくタイトル知ってるね」 「一応、有名な絵だからね。…綺麗だ。額に入れて飾ろうか」 「ポストカードだよ?」 「ああ。でも印刷が良いし。それに…せっかくアキが買ってきてくれたんだからね」 「もう…」 照れたように微笑んで控え室へと消えてしまったのは、数週間前にマスターが雇い入れたピアニストだ。 店の名は 『白芥子』(しらげし) 所在地は新宿二丁目。 場所を聞いただけでもそのスジの人間にはピンとくる、ある嗜好の男性だけが訪れるバーだ。 まだ30代でこの土地に店を出し、傾けることなくこの数年、じわりじわりと客の質を上げながら業績を伸ばしてきたこの男は、イヤミなくらい長身で二枚目だ。ホストの経験もあり、その優しげな面立ちは口数の少なさとあいまって癒し系と称されることが多い。 楠木正司(くすのき しょうじ) 経営者でありながら、自らカウンターに入る 『白芥子』 のマスター。 …マスターが物思いに耽りながらグラスを磨いていると、アキのピアノ独特の魅惑的な音色が店の中に広がりはじめた。その聴いたことのない曲に自然と意識が耳に集中する。 ――なんとも気持ちの良いメロディ。ほどよく明るく、温かく。それでいて初夏の夜風のような清々しさと、どこか懐かしい匂いを感じさせるような。 (とんだ拾い物だったな…) マスターが聞き惚れていると、ほんの数分で曲が終わってしまった。 「アキ、今の何て曲?」 「夜のカフェテラス」 「…即興?」 「うん」 楽しそうに笑っていた。 ホントに、ピアノが好きで堪らないといった表情。 「あの絵を見たときにね、この店みたいだなって思ったんだ、俺」 「ゴッホの…夜のカフェテラスが?」 「そう。だってなんか居心地良くて、長居しちゃいそうな店でしょう?」 「それはそれは…」 「長居してもいいよね。…俺」 「…末永く…よろしく」 巨匠の絵画に感性を刺激された若きピアニスト。 アキは日に日に進化する。花の蕾が開いてくるように――少しずつ。 この発展途上の若者が持つ独特の魅力が眩しかった。でもその抜きん出た感性ゆえの脆さも見え隠れしていて、彼は人を放っておけない気分にさせる。 その危うさが彼自身を傷つける要因にならなければいいが…。
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