第1章

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グラスを磨く手を止めて、マスターは流れてきた美しい旋律に、しばし耳を傾けた。 「俺、アンタのこと知ってるよ。矢代…忍だろ?」 マスター自慢のアンティークなグランドピアノ。 それは雰囲気を重視したこの店のダウン気味なライトでは、一見、見分けがつかないほど深みのあるワインレッドだ。 しかしその古めかしい外見とは裏腹に、半年に一度の調律を欠かさない音色は限りなく繊細でクリアなものだと、たった今、名曲を奏でる長い指先を眺めながら、矢代忍(やしろ しのぶ) は思った。 パソコンでメールでも打っているような気軽さ。なのにどこまでも柔らかく正確なタッチが、素人耳で聞いても只者ではないなと思わせる。 吸い込まれるように鍵盤の上を踊る指の動きに気をとられていたおかげで、矢代は声を掛けられたのが自分だと気付くのに一瞬遅れてしまっていた。 「…え?」 「槍投げの…選手だろ? アンタ」 「あ…ああ」 アンタんとこの会社が最近出した冷凍ピラフ。わりと美味いからよく買ってるよ。特売で。と、目の前の男が矢代の在籍する食品会社の商品を褒めている。 確かに昔からトップクラスのアスリートとして期待され、大学に入ってから実業団の選手となった今まで数々の記録と共に名を残してきた矢代だが、オリンピックの時期でもないのに、初見で名前と所属企業を言い当てられたのは初めてだった。 …ここが、都内のグラウンドかスポーツ用品専門店ならまだ、わからないこともないが。 新宿の、ある嗜好の男たちが集まるバー。 『白芥子』(しらげし)。その名の由来は、マスターが昔、最愛の恋人と別れたことと、芭蕉の句に関係がある。 と、以前珍しく饒舌になった本人から聞いたことがあるが、そっち方面に疎い矢代には、ふうん。と相槌を打つくらいしか出来なかった。 そして今、矢代が話している相手は聞き惚れるほど豊かにジョージ・ウィンストンの切ないメロディラインを生み出している、――ピアニストだ。 「俺が知ってるのが意外? 俺、アンタが関西の高校で槍投げやってる頃から知ってんだよね。…っていうか、俺も一応陸上選手だったからさ、大会で見かけたりとか。アンタのそのガタイ、今は195センチだっけ? どこいっても目立つし、…何しろお祭り男で嫌でも目に入るっていうか」 「種目は?」 「え?」
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