第1章

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「確かに、あんちゃん。タッパ180以上あるやろ。それに、見た感じピアニストにしちゃ?いい体してるみたいやけど、何やってたん? 陸上」 「…400メートルハードル」 ピタリと音が消えた。 さっきまで鍵盤の上を躍らせていた両手を矢代の前に差し出し、人差し指の側面を上向けて見せる。 黒いタキシードは借り物なのか、袖が少し短く肩がきつそうだった。 「ほら…ここ。スタートダコ。もうだいぶ薄くなったけどね。今じゃ指先のほうがずっと硬い…」 短距離選手の手に出来る、特有の証。 その痕を、節の目立つ長い指で撫でながら、昔を懐かしむような目をしていた。少し俯いた表情がなんとなく寂しげで、…儚げで。 矢代は正直…惹かれていた。 「ピアノ…もっと聴かしてくれへん? あんちゃんの音色…俺の好みやから」 その手にそっと自分の指を滑らせながら、矢代は微笑みかける。……言葉の裏の意味を諭すように。 「アキ」 「ん?」 「俺のこと。…ここではアキって呼ばれてる」 それだけ言うと、アキは控えめなスポットライトに照らされた鍵盤に矢代が撫でていた長い指をのせた。 そして返事の変わりに微笑を浮かべると、ゆっくりと目を閉じ、ジャズの名曲、フライ・ミー・トゥザ・ムーンを、通常よりゆっくり、独特の節をつけて奏ではじめたのだった。 …矢代の誘い文句は有効だった。 「なに? キスはアカンの?」 「…」 この店にはよく来る。時にその夜の相手を探しに。時に物静かなマスターと人生について語り、失恋の痛手を酒とピアノで紛らわす為に。 今夜の目的は、――前者だ。 まさか新入りのピアニストを口説くことになるとは思ってなかったが…。 「リップ以外なら…ええの?」 「んっ…あっ…」 「んー? まだ何もしとらんよー? ファスナー下ろしとるだけー」 「ウソっ…ぁ」 「…なんや。誘われ慣れてると思ったら…案外ウブな反応やなぁ。…アキちゃん?」 「そんっ…あっ…やっ」 このバーでのオイタはマスターに固く禁止されている。 『ヤるなら他所でやってくれ』 というのが彼の決めた掟だ。もちろんトイレでの行為などもってのほか、見つかったら即、出入り禁止になる。 マスターの人柄も店の雰囲気も気に入っている矢代としては、そんなリスクは負う気になれない。 待ちきれないガキじゃあるまいし、自分らしくない。と、思ってみても、もう遅い。
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