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今夜の予約を確認したくて、トイレから出てくる彼と、すれ違いざま軽くキス出来ればそれで良かった。なのに、触れ合う瞬間、ピクンと肩を揺らして逃げてみせた彼の反応に、どうしようもなく…そそられてしまったのだ。
「どうする? コレ…もう…引っ込みつかんやろ?」
自分で悪戯を仕掛けておいて、放り出すことは出来ない。
――…矢代は腹をくくった。
「マスターに見つからんよう、祈っててな、アキ」
「ダメっ…それやめっ…んんんっ」
アキの体がくの字に折れ曲がる。腹を抱えるようにしているのは、そこに矢代の頭があるからだ。
洗面台の目の前で壁に押し付けられ、矢代の大きな体に腰をがっしりと抱え込まれた状態では逃げることもままならない。
それでも、アキはより強い興奮を感じていた。戸惑いも、羞恥も、本心も、この行為を止めさせる全てのものを放り出してしまえるほどに。
何もかも捨てて 『この男』 の手管に酔わされる…鮮烈な悦び。
「んっ…んっ…あっ…っ」
荒い呼吸と汗ばむ肌。霞んで来る思考の片隅で、マスターの顔が脳裏をかすめる。
「もうっ…もっ…っ…あぁっ」
「いつでも…ええよ」
「そんっ…ぁあっ…くっ」
もう離してくれという意味で言ったのに…。
堪らず、アキは矢代の頭を抱え込むようにして全身を駆け抜ける快感の波をやり過ごす。波の間隔と同時に矢代の喉が大きく鳴り、男らしい喉仏が上下するのが見なくともわかった。
その凄まじい羞恥と、堪らない切なさ―…。
…行為に夢中で、アキはすっかり状況を忘れていたが、ここは数週間前に決まったばかりの大事なバイト先だ。
しかも雇い主であるマスターに、アキがここで働くにあたって禁じられていることが三つある。
店の中では――
喧嘩しない
借金しない
ヤらない
実にわかりやすいこの掟は、マスターの人柄が十分に出ていて、そのせいかこの店に来る客は皆、マナーが良い。
ここでなら念願だったピアニストのアルバイトをやっていけそうだったのに。と、アキは今更ながら頭を抱えた。いや。実際抱えているのは共犯者の頭だ。ギッチリとホールドして自分の中心へと押し付けているような姿が、洗面台の鏡に映し出されている。
「あっ」
突然、ちゅっと吸われて驚いた拍子に、楽しそうな表情をした矢代が顔を上げた。
「気に入ってくれたん? 嬉しいけど、アンコールは、また後で、…な?」
「んっ」
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