第1章

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今日、アキが着ているミッドナイトブルーのタキシード。それはマスターがアキの復帰(いろいろあってアキはこの店から一年ほど遠ざかっていたのだ。)を祝って誂えたのだと聞いたが、つい先日養子縁組(この界隈で言う 『入籍』 )を果たしたふたりの脂下がった顔を見ていると、ウエディングドレスみたいなもんじゃないかと思えてくる。 「あぁ…ジョージ・ウィンストンだからか…。」 アキの奏でるメロディが一層切なげに染みてくる。昔CMで使われたこの曲は有名な部分になると、大抵誰もが聞いたことのあるフレーズの繰り返しになる。アキが昔好きだった男がよくリクエストしていたと聞いたが、今日はたまたま別の客にリクエストされたらしい。 理央が初めてアキに会ったとき、アキはこの曲の楽譜をじっとみつめていた。 新大阪に向かう、新幹線の中で。 ――その日の理央は、朝から恋人と大喧嘩して苛立っていた。 『は? 何それ。』 『だから。今日から長期出張。』 『なんで出張にウエット持ってくんだよ。』 『だってカリフォルニアだし。』 『なんでそんな嬉しそうなんだよ。』 『だってカリフォルニアだよ? ちょっと嬉しいじゃない。』 そう言って一ヶ月後に帰ってきた恋人は、真っ黒に焼け焦げた顔で笑っていた。 『お土産ないよ。仕事で行ったんだからね。』 『…マサは俺に乗るより波に乗るほうが気持ち良いんだ?』 『んー…っ ドロー!』 といって引き分けのジェスチャーをするヤツのふくらはぎにローキックを入れて家を出て以来、連絡を取ってはいない。 恋人と大喧嘩(と言っても自分だけが怒って家を飛び出したのだが)した日に大阪に出張で、まだ資料作りが終わっていなかった理央は新幹線の座席でノートパソコンを立ち上げ、仕事に集中していた。 半期決算を前に、支社の経理と係わりのある金をしっかり合わせておかねばならないのだ。 桁がいくつあろうが仕事で関わる金はただの数字だ。理央はそれが気に入っていた。 出掛けにメモしておいた数値を入力してマクロの組み換えをし、より資料を使いやすくした。きっちり数値の合った資料の完璧な出来栄えに朝方の苛立ちも薄れてきた頃。 ふと、隣の座席に気を取られた。 二十代半ばだろうか、自分と同じくらいの年頃の青年が、ペンを口元で弄び、何かを考えるように宙を見ている。その横顔に、一瞬見惚れてしまった。
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