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朝
「どうしたんだい? アキ」
「ごめんなさい正司さん。起こしちゃった?」
「構わないよ」
「なんだか…眠れなくて」
新宿二丁目のバー『白芥子』。そこで深夜まで働くふたりは朝方の光をカーテンで遮った寝室のベッドで横になっている。
「…足りなかったかな?」
「そんな…意地悪言わないで」
昨夜もいつも通り愛し合い、トロリとした余韻に睡魔が心地好く襲ってきた…はずなのに。
港区の湾岸近くにあるこのマンションの高層階で、今日は遥か遠い地上の喧騒がやけに耳についた。車の走る音、クラクション。
「もう一回…しようか」
「…ううん。今はいい」
今もまた、遠くでクラクションが短く二回鳴らされた。
「じゃあ…してあげようか?」
「大丈夫」
いつもと同じ朝。いつもと同じ恋人の甘い誘惑。
下肢に伸びてきた温かい手をやんわり拒んで繋ぎ止める。
「手…繋いでて」
「それだけでいいのかい?」
「…うん」
大きなキングサイズのベッドにちょうど良い間隔でふたり横になって、手だけ繋いでいた。
抱かれて眠るのも良い。でも、今日はちょっとだけ離れていたかった。
昔の恋人の夢を見たから――。
それも、とびきり甘い夢だった。
『アキ』
呼ばれるだけで心ときめいてしまいそうな低い声。もう、何年も聞いていないというのに。
浮気をしてしまったような罪悪感を胸にアキは戸惑う。
「アキ」
「…なに?」
「愛してるよ」
「…正司さん?」
突然の告白に心を見透かされたようでドキリとした。
「以前キミに言ったこと覚えてるかな。僕がキミのことを好きで、なんでもしてあげたいって思う気持ちは僕だけの問題で、僕はただキミに好かれたくて仕方ないんだって」
優しい目でみつめる正司から目が離せない。
「うん…覚えてる」
「変わらないよ。今でも、そしてこれからも。僕にはキミが必要で、でもそれは僕だけの気持ちだってことも」
「……正司さん」
「キミの思い出まで縛るつもりは無いよ」
「!?」
「正直だね、アキ。すぐに顔に出る。アイツの夢でも見たのかい?」
「…」
少し悲しげに微笑む正司の顔から目をそらし、繋いだ手を緩めると逆に強く握られる。その拍子にまた目が合ってしまい、そらさないでと言っているような表情がアキを捕らえる。
「まだ…好きなんだね、アイツのこと」
「そんな…こと」
「良いんだよ、ウソをつかなくても」
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