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「ウソじゃ、ない。ただ…思い出して切なくなっちゃっただけなんだ」
「…ホントに?」
「うん。忍さんのことは…今は好きじゃない。ただ、好きだった記憶は無くならなくて、たまにその頃の夢を見るんだ。…そうするとなんか…正司さんに悪くて…俺…」
素直に甘えられないんだ。声にすることなく伝えられた言葉は、唇ごと優しく啄ばまれていた。
繋いでいた手を口元へ運び、指先を愛撫される。
「あ…」
ピアニストであるアキの節の太い指を乾いた唇でなぞり、手の甲にキスをする仕草は何処までも自然で、愛に溢れていた。
「正司さん、俺も…ちゃんと愛してるから」
「アキ…?」
「ちゃんと…正司さんだけを見てるから」
「今は…その言葉だけで十分だよ。ありがとう」
「やだな。お礼なんて言わないで」
「入籍したこと…アキが後悔してたらどうしようかと内心心配だったんだ」
そう。戸籍上は義理の親子。いわゆる『入籍』をしたのだ。
「そんなこと…あるわけないじゃない」
「本当に?」
「正司さん俺の家族になりたいって言ってくれたよね、俺、すっごく嬉しかったんだよ」
「僕だってアキの家族になれて嬉しいよ」
「よかった…」
アキに笑顔が戻る。
「ねぇアキ。どうせもう眠れないだろう? 支度してカフェにでも行かないかい?」
「あ。いいね。俺カフェラテ飲みたい。でも…正司さん眠くないの?」
「僕が提案したんだよ? それに三時間は寝たから大丈夫」
通勤ラッシュの混雑を眺めるように、ふたりは窓側のカウンターに座った。自宅マンション近くのカフェはよく利用する馴染みの店だった。いつもより早い来店に、
「おはようございます。珍しいですね」
と店長らしき青年に声を掛けられたが、正司は微笑むだけでカフェラテふたつ。と言ったのだった。
カフェラテがふたつ、並んで湯気を上げている。
「前から思ってたんだけど」
「なんだい?」
「どうして正司さんは俺の前だと良く喋るのに、他の人には無口なの?」
「…さぁ」
「あ。ずるい」
カフェラテを飲んで誤魔化す恋人に詰め寄ってみたが、嬉しそうに微笑まれてしまってはもう、聞き出す術はない。
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