第1章

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雨の記憶 目覚めたら、雨の気配に包まれていた。 恋人を起こさぬよう慎重にベッドから抜け出し、窓に歩み寄る。 ――途中、椅子に掛けてあったシャツを素肌にまとい、薄日が差し込むカーテンをそっと開けてみた。 (やっぱり…) 高層マンションの窓から見下ろす都心の街並みが、たっぷりの水分に包まれていた。 雨はとめどなく落ちてきて、何もかもを濡らし、流れていく。 (………) 湿度を潤沢に含んだ雨の日特有の匂いが、窓の隙間から微かに漂っていた。 (………) ――傘をさして歩くひと。雨合羽を着てバイクを走らせているひと。ワイパーを動かしているくるま。テレビアンテナの上で濡れながら休んでいるカラス。水滴が滴るベランダのてすり。 (………なんだろう) この――雨の日の気持ちって。 (……なんて、言うんだろう) ――絨毯の上をヒトが歩く音。夕べ脱いだバスローブを羽織る音。後ろから温かい手を腰にまわし、優しく抱きしめて頬にキスする音。 「こんなに冷たくなって、いつから外を見ていたんだい? アキ」 「つい、さっきだよ」 (正司さんはいつでもあたたかい…) 「何をみているのかな?」 「雨を」 「そう」 片手で僕の髪を撫で、こめかみと、耳元、そして頬にキスしながら、恋人はちょっと伸びたひげをこすりつける。 それは彼が自分のほうを向かせたいときの合図(サイン)。 だから、僕は首を回して少しだけ振り向いてみせる。 「………」 朝にしては、ちょっと濃厚なキスだった。 (誘ってるのかな?) 「まだ、雨を眺めるのかい?」 「うん…もうちょっと」 「そう」 彼がぴったりと体をくっつけて温めてくれる。 部屋の暖房を入れてくれるより、洋服を持ってきてくれるより、 ――ずっと、嬉しい。 「俺ね、正司さん」 「うん?」 「雨の日が…好きなんだ」 「そう」 「でも。何で好きなのか…わからないんだよね」 「そうなの?」 「こうやって、部屋の中で過ごしてるとき、外が雨だと…なんだか気持ち良いんだ。…どうしてだと思う?」 「部屋の中にいるほうが、…感じやすいからね」 「なにを?」 「雨に包まれている感覚を。――アキはこうやって包まれるのが…好きだろう?」 そういって彼は僕を優しく包んだまま、ゆりかごのようにゆっくりと体を揺らしてくれた。 「………」 目を閉じて揺れながら、微かに聞こえてくる雨の気配を感じる。
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