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「雨に包まれてるね…俺たち」
「そうだね…」
「………気持ちいい…」
「アキ。ひとつ提案があるんだけど」
「なに?」
「バスタブにお湯を張ってくるから、窓を開けて一緒に入らないかい? アキの体は温まるし、雨音もここより良く聞こえるはずだ。君の好きな白ワインと絞りたてのオレンジジュースも用意しよう。…どうかな」
「…BGM。エラ・フィッツジェラルドにしてくれるなら」
「Oh, Sure」
ちょんと唇を合わせるキスをして、恋人がバスルームへと消えていく――。
彼の離れてしまった背中がひんやりと冷たい。
真っ白な空は相変わらず雨粒を落とし続け、僕は窓際から動けないままだ。
(………)
雨の日の風景は、ひとりで見ているのが好きだった。
昔も。今も――。
手足が冷たくなるのも構わず、ただじっと。
――だから、察しのいい恋人は離れていったのだろう。
タイムリミットはバスルームの準備が出来るまで。
そう、言い残して――。
だから、あと10分は、この雨を眺めていよう。
――道行くカラフルな傘の流れを、車がはじく水たまりの飛沫を、まだアンテナにとまったままのびしょ濡れのカラスを。
(この気持ちは…寂しさ?)
どこか遠い故郷に帰りたくなるような――。
(それとも…恋しさ…?)
この数多と落ちてくる水粒の中に、前世の記憶のカケラが含まれているような――。
(どっちも…かな)
遥か昔。海中から陸上へと住む環境を変えた生命の遺伝子に、初めから組み込まれているのだろうか。
――水に包まれることへの安心感が。
それともそれは自分が胎児だった頃の記憶なのか――。
(………)
そう思ったら、なぜか無性に嬉しくて。
――また雨が好きになった。
「アキ? 準備できたよ。おいで」
「うん。…今行く」
エラ・フィッツジェラルドの歌声が、バスルームに響いて僕を誘う。
シャツを脱ぎ捨て、ぬるめのバスタブに浸かる。BGMのヴォリュームを下げて雨音を聴き、バスタブの淵に頬杖をつく。
「なんだか嬉しそうだね」
冷えた白ワインと絞りたてのオレンジジュースをグラスの中で混ぜながら、恋人がやってきた。
「うん。…嬉しいんだ」
「雨が?」
「ううん」
バスローブを脱いだ恋人がバスタブに入ってくる。
後ろに座った彼が、ごく自然に僕の冷えた肩を抱き寄せた。
「正司さんて、雨みたいな人だなぁって。思ったら嬉しかった」
「僕が?」
「うん」
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