第1章

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長谷川さんが手櫛で髪を後ろへ流しながらバスタブに入ってきた。伸びた髪が首筋に波打つようにはりついていて、水を含んでいつもより幾分濃い色合いになったそれが彼の白い肌を艶かしく惹きたてている。じっと吸い寄せられるようにしばらく見つめていると視線だけで彼に 「何だ」 と優しく問いかけられ、俺は 「なんでもない」 とただ軽く首を振ってバスタブから出ると、シャワーで頭を洗い流し始めた。 (気持ちは反応してんのに…) なぜ体は反応を起こさないのかと、俺は流れていくシャンプーの泡を眺めながら小さなため息をついた。 「貴弘?」 「ん? んん。なんでもないよ」 無意識についたため息が彼にも聞こえてしまったようで、気遣ってくる声音に俺は勤めて優しく答えた。 じっと俺をみつめていた彼がふと窓の外に視線を移す。 (失敗…かな) 本当になんでもないようには取ってもらえなかったようだ。気持ちに嘘をついているのだから仕方ないかと石鹸を泡立てて体を洗っていると、聞き覚えのあるメロディが聞こえてきた。 (長谷川さん…?) 窓に映る彼の視線はちょうど小さな新宿のビル群に向けられていた。ぼんやりと頬杖をついて英語の歌詞を口ずさみながら懐かしいメロディラインを辿っていく。彼の鼻歌を聞くのは初めてで驚いたが、風呂場に反響しているそれが話す時よりやや低めで、時折息を抜いたように掠れる語尾に割と歌い慣れていることが知れた。 「それ、なんて曲だっけ」 「ポリスの 『Every Breath You Take』 」 (あれ? そんなタイトルだったっけ…) 知っているはずなのに聞き覚えのない曲名を言われ、俺は記憶を辿った。 (いや、確かもっと簡単な……) 「邦題では 『みつめていたい』 」 「あっそうそう。 『みつめていたい』 だ」 「俺が毎朝ホームで仕事中に口ずさんでた曲」 「へぇ?」 相変わらず長谷川さんは窓の外に顔を向けたままで、ガラスに映る彼とビル群の赤いシグナルが重なって見える。 「春…通勤電車に乗りなれない新入社員とか新入生が多い時期はホームの乗車整理員も人員を増やすほど毎年忙しくなるんだ。…あの年もやっぱり忙しくて、定刻発車と無事故に気を配って毎朝くたくただった」 「あ~。入社したばかりのころは誰かと待ち合わせて出勤したり、乗り慣れてないとスムーズに行動できなかったりするからな…混み合う時間は大変だよね」
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