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「そう。その混み合う忙しい時間の中で俺…突然ひとりの男から目が離せなくなったんだ。…向こうは会社の同僚らしき人と話してて俺の視線には気付かなかったけど。…ドアの向こうで笑ってるソイツが凄く気になって仕方なかった」
「へぇ………そんなイイ男だったの? ソイツ」
(俺以外にも誰かに目をつけてたのか…?)
チリっと胸を焼いた悋気は顔に出さず、体を洗い終えた俺は長谷川さんと向かい合うようにしてバスタブにゆっくり身を沈めた。
「それも…あるけど、なんか…こう表情が気になって」
「表情?」
「うん。とっても人懐こそうに笑ってるんだけどね。なんか…違うなって思って」
「………」
「本気で笑った顔が見たいなって…思った」
「それって…いつ頃?」
「3年前の春」
「長谷川さん………」
「その後半年くらいはたまに見かける程度だったんだけど…そのうち毎朝同じ時間の最前車両二番目のドアのところに立って本を読んでるのがソイツのお決まりになって。…本は推理モノが多くて、……文庫本が持たれた大きな手と大事そうにページをめくる指先が印象に残ってる」
(それ…俺のこと………じゃん)
「ちょうどそのころ…何かでこの曲を聴いて…なんか頭から離れなくなっちゃってさ。毎朝、仕事しながら口ずさんでた。………思えばあの頃から俺の片想いだったんだよな」
「今は…片想いじゃないじゃん」
「いいよ。………無理しなくて」
「長谷川さん?」
「離れてる間に…俺への気持ち…冷めたんだろ?」
ドキ…。
「何言って…」
「だって。貴弘、俺が帰国してからなんか…変だし。俺のこと、避けてるし」
「ちょ…何言ってんの。長谷川さんに会えて俺が泣くほど喜んだの、忘れたの?」
「そう思って…た。また会えた事を喜んでくれてるって。でも…それはもう」
「もう、何」
「恋人としてじゃ…ないんだろ?」
「長谷川さん!?」
「だって。前の貴弘だったらっ…こんなに傍に居るのに触れてこない事なんてなかった!…もう、俺に興味が無いならそう言ってくれなきゃ…俺…いつまでも期待しちゃうから…」
「違う!」
無意識に彼の両腕を掴むと湯船の湯がぱしゃん! と音を立てて大きく揺れた。
「頼むよ…貴弘。……誤魔化さないで本当のこと言ってくれよ。俺、オマエの本当の顔しか知りたくないんだ」
揺れる湯面を見つめながら長谷川さんが静かな声で話し出した。
「え…」
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