第1章

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「そうだな。お前あんまり泳いでないみたいだし」 「長谷川さんが、はしゃぎすぎなのー。もう、2000くらい泳いだんじゃないの?」 なかなか立ち去らない男にチラリと視線を送る。 (見てわかんねーかなオッサン。この人。俺のだから) 「確か1500くらい泳いだはずだよ。じゃ、あと500泳いで帰るか」 「俺はその半分でイイや。居残りになっちまう」 ははは。と笑った長谷川さんが傍らで立ちつくす男性に気付き笑いを引っ込める。 「あの。やっぱり、名刺はいりません。泳ぐのは好きですけど、それ以上に好きなものがあるので時間作れませんから。それじゃ、失礼します」 「…あ。ああ」 「行こう。貴弘」 「…うん」 (よっしゃ。長谷川さん! ナイス) プールに入って空いてるコースへと横断しながらそっと彼の腰に手を回す。 「なんだよ? 沈める気か?」 「沈めたらキスして良いの?」 「バカ」 笑いを含んだセリフがこそばゆい。どうしてこの人はこうも簡単に俺を喜ばせるんだろう。 「長谷川さん」 「ん?」 「泳ぐことより好きなことって何?」 「………教えない」 顔を赤らめた彼がぷいとそっぽを向いてしまう。それが答えだとでも言うように。 「なんでー。良いじゃん教えてよ」 おれが嬉しそうに追求すると、クルッとこっちを向いた彼が挑戦的な瞳でニヤリと笑った。 「俺が500泳ぐより先にお前が250泳いだらな」 「え?」 「お先」 スウッと水面から消えた彼の陰が壁を蹴って水中を魚影のように音もなく遠ざかっていく。25メートル辺りまで行ってやっと浮上し泳ぎ出した。さっきまでとはピッチが違い、彼が本気で泳いでいるのだとわかる。その証拠にさっきまではタッチターンだったのが水中でクルッと回るフリップターンに切り替えられている。 それにしてもこちらに向かってくる彼のフォームの美しさに溜息が漏れそうだ。彼の太極拳同様、流れるような動きとキレ、無駄な動きのない伸びやかなそれが今や監視員をはじめプールに来ている数名の視線を集めていた。 (おっと…こうしちゃいられない) いくら半分の距離とは言え、あのスピードで泳がれては俺に勝ち目はない。だからといって勝負を投げてしまうのは惜しく、やはり腐っても体育会系の血が騒ぐ。やれるだけやってみようと俺は急いでスタートを切った。 「はぁ…はぁ…はぁ…も…死ぬ…」
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