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扉がカランと品のいい音を立てて開き、ひげを生やしたマスターが、自然と常連客に見せる親しみを含んだ顔になる。
ほら、やっぱり今日も来た。
「マスター、いつものね」
と夫が言った。
店内が暗いためか、まさか妻が待ち構えているとは思っていないからか、右隣にいる私の存在にまるで気づいていない。
「えっとー、なんにしよっかなぁ」
一緒に入ってきた若そうな女が、舌足らずな口調で言った。
なによ、いつものって。それでカ ッコつけてるつもりなのかしら。そんなことよりね、左じゃなくて、右を見てみなさいよ。
まったく、ほんとうに、くだらない。
悲しいんじゃなく、悔しいのでもなく、ただくだらないと、夫の浮気に対して思うようになったのはいつ頃だったろう。
うまく思い出せない。わりと最近だった気もするし、気の遠くなるような昔のことだったかもしれない。
私は絶望していた。結婚して二年も経たないうちに、夫に女として見られなくなったことや、自分のふがいなさや、そういう色々なことに対して。
だけど、その考えはあるとき突然、変わったのだ。
思い切って会社帰りの夫を待ち伏せして、後をつけてみた。
もちろん人を尾行するのも初めてだったので怪しかったに違いないけれど、そんなときにも浮かれた夫は、つけられているなんて考えもしなかったのだろう。何の疑いも持たずにそのバーに入って行った。
そのときだった。それまで抱いていた情けなさや、劣等感や、それでも耐えていくしかないという諦めの気持ちがさっぱり消え去ったのは。
引っかかっていた異物を取り除いたみたいに、私の心は、何の前触れもなく突然に、軽やかになった。
それまでどこか別の世界で起こっていることと決め込んでいたのが現実になった、そのときから。
『許せないのが恋で、全部許せるのが愛だ』
いつか読んだ小説の一節を、ふと思い出した。
読んだ当時はよく意味がわからなかったけれど、そうなのかもしれない。だって、私はそのどちらでもなかったから。夫を許せなかったわけじゃないし、そうかと言って、全部許せるわけでもなかった。
それならもう私の中にある感情は、愛でも恋でもないのかもしれない。
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