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ふいに、男の手元の携帯電話が鳴った。
「悪い、ちょっと出てくるわ」
男はそう言って立ち上がり、部屋を出て行った。
梓はまどろんでいた。首を上下に揺らしはじめ、やがて腕を組んでテーブルに伏した。
顔を私のほうに向けて、すうすう寝息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている。酒で赤らんだ頬を、ふっくらとした唇を、私はしばらく見つめていた。
魔がさした、というのだろう。
ほとんど衝動的に顔を近づけ、そして次の瞬間には、梓の唇に、自分の口を押し当てていた。
彼女のそれは想像よりもずっと柔らかくて、ずっと官能的だった。
紅く柔らかで、果実みたいに甘くて。
なんて綺麗なんだろう。
ただ、一瞬の熱に酔った。
それだけのはずだった。
「なにしてんの?」
恐ろしく冷たい男の声が、静かな部屋に響いた。
男の足音にすら気づかないほどに酔っていた私は、はっと我に返り、顔を上げる。
なに、してたんだろう、私。
「あの……私……」
言葉が続かなかった。言い訳のしようがなかった。
「コイツ、連れて帰るから」
問い詰めることもなく、男は寝ている梓の手を引っ張り、無理矢理立ち上がらせて、出て行った。
今度はもう、戻ってくることはない。
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