彼のキス、課長の提案

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足を止めて振り返った篠田を、思いを込めて見つめる。 「話、聞いてくれてありがとう。 ……リップも」 「いえ。 また何かあったら言って下さい。 …じゃあ、また明日」 彼はほんの少し微笑んで、また歩き始めた。 濃紺のコートの背中を振り返らないようにして、私も大通りの明かりへと歩き始める。 互いの靴音が次第に遠ざかり、 自分の靴音だけになった時。 立ち止まり、そっと唇に触れた。 彼の感触を残す唇はまるで無防備に裸の気持ちを晒している気がした。 身体を重ねる目的抜きで、 初めて二人で過ごした時間。 ベッドでの行為抜きで、 初めて触れてくれた唇。 あのキスは、何? あの時一瞬見えたものは、何? “すみません” だけど彼はきっと、 私の心を求めない。 きゅうっと壊れそうな胸に手を当てて目を閉じる。 大人になれば、致命傷から自分を守るための分別を覚える。 歩き続けるために、心を殺し封印し別のものを代わりにして生きていく狡さも。 でも、顔を上げてまた前に歩き始めながら、もう自覚していた。 心はあの背中を追い掛けて、 走り始めていることを。 どれだけブレーキをかけても、 怖いぐらいに。 どうすれば止まれるの? 三十代半ば。 こんな迷いを見透かすような救いの誘惑が、私に近づいていた。
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